「たとえ私たちが、探求に取りかかるのにまったくやる気がないわけではなく、怠惰でないとしても、主なる私たちの救い主がそれへと私たちを招くなら[1]、私たちは、かくも偉大な諸々の事柄に関して理解が求められているのに、私たちがそのための霊的理解の偉大さからかけ離れているのを考えると、間違いなく歩みを後退させることでしょう[2]」。



[1] Cf.Mt.7,7.

[2] Com.Gn.Praef.

 

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