54 したがって、神の独り子が、彼の実体的に自存する知恵であることがひとたび正しく受け入れら得たなら[1]、我々の思考が度を超して迷走し、彼の個別的自存それ自体――すなわちヒュポスタシス――が、物体的な何がしかを持っているのではないかと憶測するのが必定かどうか、私には分からない。なぜなら、物体的なものはすべて、形や色や大きさで表示されるからである。いったい健全な思考を備えた人の誰が、彼が知恵であるということによって、知恵の中に形や色や計測上の大きさを探究しただろうか。

 さらに、父なる神が、この知恵の誕生なしに存在したときがあるとか、あるいは或る時点でそうだったと――神について何かしら敬虔な事柄を理解したり考えたりすることのできる人の誰が、どうして考えたり信じたりすることができようか。あるいは人は、神が知恵を生む前は知恵を生むことができなかったが、知恵が存在するようになるために、以前は存在しなかった知恵を後に生んだと言うかもしれない。あるいは(その人は)(神は知恵を生むことが)できたが――これを神について言うことは許されない――生むことを望まなかったと言うかもしれない。それらはともに、神が(知恵を生むことが)できなかったが、できるように進歩するとか、あるいは、(知恵を生むことが)できたのに知恵を生むことを隠し遅延するなどということは、馬鹿げており、不敬虔なのは、すべての人に明らかである。それゆえ我々は、常に神が彼の独り子の父であることを知っている:独り子は、父から生まれ、父からご自分のすべてを引き出しているが、いかなる始まりも持たない――或る人たちによって諸々の時間によって特定されるような始まりばかりでなく、精神がそれ自身によってそれ自身の内に、いわば裸の知性と魂によって直視し把握する始まりも持たない。したがって、言及したり理解したりすることのできる一切の始まりの外で、知恵は、生み出されたと信じられねばならない[2]



[1] Cf.1Co.1,24.

[2] 本節は、『諸原理について』第12,2以下からの抜粋である。

 

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