58 したがって、()文書の言葉が「神の第一の生まれざる力の息吹」と言っているように[1]、別の力がそれ自身の特性において自存することになる。それは、それ自身であるところのものをそこから引き出すが、存在しなかったときはない。

 実際、もしも誰かが、(その力は)以前は実在しなかったが、後に自存に至ったというようなことを言おうとするなら、その人は、それを自存させた父がなぜ以前にそれを為さなかったのかを言うべきである。しかし、その息吹が神の力から発出した始まりを、もしもその人が与えたなら、彼が述べたその始まりの前に、どうして(その始まりが)なかったのかと我々は再び問いかけるだろう。こうして我々は、より以前の諸々の始まりについて常に探求し、問いかけの言葉によって遡ることにより、次の理解に至った:すなわち、父には常にできたことであり、望んでいたことでもあるので、その望み可能であった善きことを常に持たなかったというのは適切でもなければ、その理由も存在し得ないということである。そこから、「神の力のあの息吹[2]」は、常に存在していたのであり、神ご自身の他にはいかなる始まりも持たないとうことが明らかにされる。実際、それが由来し、生まれるところの赤みご自身の他に別の始まりがそれにあるということは適切ではない。むしろ、キリストは「神の力である[3]」と言う使徒に従って、彼は単に「神の力の息吹[4]」であるばかりでなく、力よりの力と言われねばならない[5]



[1] Cf.Sg.7,25.

[2] Sg.7,25.

[3] 1Co.1,24.

[4] Sg.7,25.

[5] 本節は、『諸原理について』第12,9以下からの抜粋である。

 

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