「しかし議論の最中に、もしも人に何らかの深淵が生じたなら、そのことについて言わなければなりませんが、全面的な肯定で言われるべきではありません。実際、そうすることは、人間の弱さの感覚を失い、自分が誰であるかを忘れた無思慮な人間のすべきことであるとともに、完成の域に達した人たち――主イエスご自身から、すなわち真理の言葉から学び、すべてのものを造った知恵そのものから覚知を得たこと[1]を確信して知っている人たち、および、神ご自身まします嵐と密雲の中に入って[2]神的な諸々の応答を天から得た人たち――のすべきです。この神的な諸々の応答は、あのモーセでさえやっとのことで(その嵐や密雲の)中に入り、理解たり表明したりすることのできたものであります[3]」。

 他方、我々としては、ひたすら凡庸な仕方によってでしかないが、主イエスを信じており、彼の弟子であることを光栄に思っている。しかし我々は、彼ご自身から「顔と顔を合わせて[4]」伝えられた知識――すなわち、神的な諸々の文書に述べられている諸々の事柄の知識――を獲得したと敢えて言わない;世界それ自体も、諸々の意味の崇高さと偉大さゆえに、それらの事柄を捉えることができないと[5]、私は確信している。それゆえ我々は、我々が語る諸々の事柄について、使徒たちにはそうできたように、敢えて宣言しない。むしろ我々は、次の点において感謝している:多くの人たちがみずからの無能力をしらず、自分の乱雑で無秩序で、時に愚かで空想的でもある諸々の考えを全き自信をもって布告している――まるで彼らが、もっとも真実な断言として布告している思いなしているかのように;それに対し我々は、偉大で、しかも我々(の能力)を超える諸々の事柄について、我々の無知を知らないわけではない[6]、と。



[1] Cf.Jn.1,3; Sg.9,1-2.

[2] Cf.Ex.19,16-20; 20,21.

[3] Cf.He.12,21.

[4] Cf.Dt.5,4-5; 1Co.13,12.

[5] Cf.Jn.21,25.

[6] プラトン『ソクラテスの弁明』(21D)参照。

 

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