70 したがって、すべての善きものの源泉である神の本性とキリストの本性を除いて、善や悪を受けない本性はまったくない。実際、彼は智恵であり[1]、どうみても智恵は愚かさを受けることができない。そして彼は義である[2]。しかし義は、絶対に不義を受け取らない。そして彼は言葉や理性である[3]。確かに理性は、非合理にはなり得ない。さらに彼は光でもある[4]。そして、諸々の闇が光を含まないのは確実である。どうように聖霊の本性も、それは聖であるから、汚れを受けない。なぜななそれは、本性的にあるいは実体的に聖だからである。

しかし、もしも他の何らかの本性が聖であるなら、それは、摂取によってあるいは聖霊の吹き込みによって、聖化されるのであって、みずからの本性によってではなく、偶発的に獲得するのである。それ故、偶発したものが脱落することもあり得る。そのように人は、正義を偶発したものとして持つことができるが、そのゆえにその正義が脱落することもあり得る。同じく人は、智恵も、偶発したものとして持つ――もっとも、我々が各自の努力と生活の功績によって智恵ある者になることは、我々の権能の内に置かれているけれども。そして、もしも我々がそのことに常に努力を注ぐなら、我々は常に智恵に参与する。しかしそれは、生活の功績や努力の量の大小に比例して我々に偶発するのである[5]



[1] Cf.1Co.1,24.

[2] Cf.1Co.1,30.

[3] Cf.Jn.1,1.

[4] Cf.Jn.8,12.

[5] 本節は、『諸原理について』第18以下からの抜粋である。

 

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