72 他方、聖霊について、それが存在することを、諸々の()文書が我々に教えている。たとえばダビデは、第五十番の『詩編』で、「そしてあなたは、あなたの聖霊を私から取り去らないでください[1]」と言っている。『ダニエル』においても、「あなたの内にいる聖霊[2]」と言われている。他方、『新約』の中で我々は、諸々の豊富な証言によって(そのことを)教えられる――たとえば、聖霊がキリストの上に下降したことが描写されたとき[3]、主ご自身が、復活後に使徒たちに息を吹き込んで、「あなた方は聖霊を受けなさい[4]」と言ったとき、そして、マリアにみ使いによって「聖霊があなたの上に来るでしょう[5]」という言葉が言われるとき。パウロも、「誰も、聖霊においてでなければ、イエスを首都言うことはできません[6]」と教えている。『使徒たちの諸言行』の中でも、使徒的な諸々の手の按手を通して聖霊が洗礼において与えられるとある[7]。それらすべて(の証言)から、救いをもたらす洗礼が、万物を最上級に卓越する三位の威厳なしには、すなわち父と子と聖霊の名を挙げずしては、遂行されないほど[8]、そして、生まれざる父と彼の独り子とに聖霊の名前も結び付けられるほど、聖霊の実在の威厳と品位が偉大であることを、我々は学んだ。したがって、「人間の子に言葉を言った者は、赦しを期待することができるが、聖霊に冒涜を吐いた者は、現在の代においても来るべき代においても、赦しを持つことはできないだろう[9]」と聞いて、いったい誰が茫然自失しないだろうが――なんど大きな威厳が聖霊にあることかと[10]



[1] Ps.51,13.

[2] Dn.4,6.15:ネブカドネツァルがダニエルに言った言葉。

[3] Cf.Mt.3,16.

[4] Jn.20,22.

[5] Lc.1,35.

[6] 1Co12,3.

[7] Cf.Ac.8,18; 19,5-6.

[8] Cf.Mt.28,19.

[9] Mt.12,32.

[10] 以上は、『諸原理について』第13以下からの抜粋である。

 

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