78 しかし、神によって救いへと再生された人が[1]、父と子と聖霊とを必要としている――なぜなら彼は、三位が全部そろっていなければ救いを獲得しないからである――こと、また、聖霊なしで父や子への参与者になることができないことは、どのような理由によるのかを探求するのは正しいことであると思われる。それらの事柄について検討する人たちは、疑いもなく、聖霊の特別な働きと、父と子の特別な働きとを描写する必要があるだろう。

さて、私は次のように考えている:父と子の働きは、聖なる人たちに内にばかりでなく罪人たちの内にも、理性的な人間たちの内と物言わぬ動物たちの内にばかりでなく、魂のない諸々の物の内と、およそ存在するすべての物の内にも存在する。しかし、聖霊の働きは、魂のない諸々の物の内にも、魂はあるが物言わぬものたちの内にも決して現れないばかりでなく、理性的であるが邪悪の内に置かれていて、より善き諸々の事柄にまったく回心していない者たちの内にも見出されない。私は次のように考えている:聖霊の業は、すでにより善き諸々の事柄に回心し、キリスト・イエスの諸々の旅路を通って前進する人たち[2]、すなわち、諸々の善い行いの内にあり、神の内の留まっている人たち[3]の内にのみ存在すると。

しかし、父と子の働きが聖なる人たちの内と罪人たちの内とに存在することは、理性的なすべての者たちが、神の言葉すなわち理性に参与しており、そのことによって智恵と正義――これはキリストである[4]――との諸々の種のようなものをみずからの内に担っていることから、明示される。そればかりか、一切の被造物が存在し存続すること自体が、「私は、存在する者である[5]」と言う父なる神の働きである。その働きは、すべてのものに及ぶ。なぜなら彼は、「ご自分の太陽が善き者たちと悪しき者たちの上に昇ることを命じ、正しい者たちと不正な者たちの上に雨を降らせる[6]」からである[7]



[1] Cf.1P.1,3.

[2] Cf.Ep.2,10.

[3] Cf.1Jn.4,13.

[4] Cf.1Co.1,30.

[5] Ex.3,14.

[6] Mt.5,45.

[7] 本節は、『諸原理について』第13以下からの抜粋である。

 

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