30 しかし我々は、聖霊の参与が聖なる者たちによってのみ持たれるのを見出す。それゆえ、こう言われている:「聖霊の内でなければ、誰もイエスは主であると言うことはできない[1]」。また、そうでなければ、使徒たち自身も、「聖霊があなた方の内に臨むとき、あなた方は力を受け取るだろう[2]」という言葉を聞くに相応しいと見なされることはない。それゆえ、人間の子に対して罪を犯した者が赦しに価するのは必然であると、私は思う[3]。なぜなら、言葉や理性に参与する者は、もしも理性的に生きることを止めても、無知や愚かさに陥っていたと思われるがゆえに、赦しに価するからである。それに対し、聖霊の山陽に価すると既に見なされた者が後方に向き変わったなら、彼は、その業それ自体によって聖霊を冒涜したと言われる[4]



[1] 1Co.12,3.

[2] Ac.1,8.

[3] Cf.Mt.12,32.

[4] Cf.Mc.3,29. 本節、『諸原理について』第13以下からの抜粋である。

 

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