84 諸々の地の一切の領域の中で、ギリシア全土と外国のすべての諸国民の中で、数限りない無数の人たちが、父祖伝来の諸々の律法と、彼らが神々と考えていたものどもを捨てて、モーセの律法と、キリストの教えと礼拝の遵守に身を託した。そしてそのことは、彼らに対して、諸々の偶像を崇拝する者たちの激しい憎悪を引き起こさずにはおかなかった。その結果、彼らはしばしば彼らによって諸々の苦悩によって苛まれ、死に至らしめられることもあった。しかしながら彼らは、キリストの教えの言葉を抱きしめ、全き愛情を持って守った。

そして、どのようにして短い時間に、その宗教が成長したかをみることができる:それは、諸々の刑罰と礼拝者たちの諸々の死において前進した――しかも、諸々の財産の諸々の略奪とそれらに由来する一切の類の苦悩を堪え忍ぶことによって。そして、それにもまして大いに驚くべきことは、教師たち自身が十分に有能でもなく、十分に多くもないのに、その説教が「諸々の土地の全領域の中で宣べ伝えられた[1]」;その結果、ギリシア人たちも夷狄たちも、賢者たちも未賢者たちも[2]、キリスト教的教義の宗教を受け入れることである。そのことから次のことは疑い得ない:それらのことは、人間的な諸々の力や諸々の資質によって行われるものではないということである――一切の権能と説得力をもって、イエス・キリストの教説が、すべての人たちの諸々の精神と諸々の魂の許で有力になるために。実際、それらのことそれ自体が彼によって宣べ伝えられ、彼からの諸々の神的な応答によって確証されていることは、彼が次のことを言うとき明らかである:「あなた方は、私の故に統治者たちと裁判官たちの許に連れ出される――彼らと諸国民たちに対する証しのために[3]」;そしてまた、「この福音は、多くの諸国民の中で宣べ伝えられるだろう[4]」;そして再び、「多くの人たちが、その日の中で私に言うだろう:『主よ、主よ、私たちはあなたの名前の中で食べ、そして飲み、そしてあなたの名前の中で悪霊たちを追い出したのではないですか』と。そして私は彼らに言うだろう:『あなた方は、私から去りなさい。不正の働き手たちよ。私は、あなた方をまったく知らない』[5]」と。それらの事柄がそのように彼によって言われたとしても、予言された諸々の事柄が目的に達しなかったとすれば、それらの事柄はあまり真実なものには見られず、権威の何がしかを持っているようには見られないだろう。ところが今、彼によって予言された事柄が実現に達しているのであるから、しかも、かくも大きな権能と権威によって予言されたのであるから、人間と成り、救いをもたらす諸々の掟を人間たちに渡した方は真実に神であることが極めて明瞭に宣言される。

それゆえ、真に次のことは何と言われるべきか:預言者たちが彼について前もって次のことを預言したことは:「ユダから出た君主たちも、彼の諸々の腿から出た指導者たちも絶えないだろう――諸国民たちの期待が来るまで[6]」。実際、歴史それ自体から、そして今日に概観される諸々の事柄から極めて明瞭に次のことが立ち現れる:キリストの諸々の時から、もはや王たちはユダヤ人たちの許に実在しなかったということ。そればかりか、あのすべてのユダヤ的な諸々の自慢――それらの中で彼らは最大の自己顕示を示しており、それらの中で彼らは誇っていました――すなわち、神殿の装飾についてであれ、祭壇の諸々の華美とすべての祭司的な諸々の花帯と大祭司たちの諸々の衣服についても、それらはことごとく同時に破壊されました。実に預言は成就された。それは次のことを言っていた:「多くの日々を通してイスラエルの子らは、王なしに、君主なしに座るだろう。生け贄も祭壇も祭司職も諸々の託宣もないだろう[7]」と。

したがって我々は、それらの諸々の証しを次の人たちに対して使う:すなわち彼らは、『創世記』の中でヤコブによってユダについて言われた諸々の事柄について擁護しているように見え、ユダの種族から出た君主――彼らが太祖と名づけている自分たちの民の君主――がまだ存続しており、彼らが自分たちのために描く彼のキリストの到来まで彼の種から出た人たちは欠落し得ないと言う。しかしもしも、預言者が言ったこと:「多くの日々を通してイスラエルの子らは、王なしに、君主なしに座るだろう。生け贄も祭壇も祭司職もないだろう[8]」ということが真実であるなら、そして、神殿が覆されて以来、諸々の生け贄が捧げられず、祭壇も見出されず、祭司職も存立していないなら、(聖文書に)書かれているように、「(来臨するという)約束が与えられた方が来るまで、ユダから出た君主たちと、彼の諸々の腿から出た指導者が欠落した[9]」のは、確実極まりない。したがって、「(来臨が)留置された方――彼の中に諸国民たちの期待がある――が来たこと」は確実である。そのことは、キリストを通して様々な国民たちから信じるに至った人たちの数の多さから成就されたことは明らかに見て取れる。

そればかりか、『申命記』の歌の中でも預言者を通して、前出の民の諸々の罪の故に「愚かな諸国民」の選び、他ならぬキリストを通して為される選びが将来あることが示されている。実際それは次のことを言っている:「彼らは、彼らの諸々の彫像の中で私を憤激させた。そして私も、妬みの中で彼らを苛立たせるだろう;私は愚かな諸国民の中で彼らを怒らせるだろう[10]」と。したがって次のことがどのような仕方でかを十分に明らかに知ることができる:「神々ならぬ諸々のものの中で神を憤激させ、自分たちの諸々の彫像の中で彼を怒らせたヘブライ人たちがどのような仕方で怒らされたか――しかも、キリスト・イエスの到来と彼の弟子たちを通して神が選び出した愚かな諸国民を通して妬みの中で[11]」。実際、使徒はそのような意味で次のことを言っている:「実際、兄弟たちよ、あなた方はあなた方の召し出しを見てください。なぜなら肉に従うと、あなたがの間に賢者は多くありませんでした、有力者は多くありませんでした、高貴者は多くありませんでした。世の諸々の愚かな事柄と存在しない諸々の事柄を、神は選び出しました――以前に存在していた諸々の事柄を破壊するために[12]」。「ですから肉的なイスラエル[13]」――実際そのように使徒によって呼ばれている――は自慢すべきではない;「肉は、神のみ前で自慢すべきでありません[14]」と言っている。

しかし、諸々の詩の中でキリストについて預言されている諸々の事柄についても、何が言われるべきか――取り分け、『愛される方のための賛歌』と上書きされている詩の中で。どこに次のことが述べられている:「彼の舌は、速やかに書く書記の葦筆。見目の麗しさは人間たちの子らに優る。なぜなら彼の諸々の唇の中に恵みが広げられているから[15]」と。ところで、「彼の諸々の唇の中に恵みが広げられている」という指標、それは次のことである:彼の教えの短い時間が過ぎたにもかかわらず――実際、彼は一年と数か月の間に教えた――、全地が彼の敬神の宣教と信仰に満たされた、ということである。したがって、「彼の諸々の日の中で正義と平和の多数性[16]」とが生じた。それは、「月の奪取[17]」と呼ばれた終わりまで存続する。そして、「海から海まで、そして、川から大地の諸々の終わりまで支配する[18]」。

しかし、ダビデの家にも印が与えられた[19]:実際、「乙女が胎内に身ごもり、インマヌエル――それは、神は我らと共にと解釈される[20]――を産んだ[21]」。そして、預言者自身がが言っていることが成就された:「神は我らと共に。諸国民よ、あなた方は知るがよい。そしてあなた方は打ち負かされよ[22]」と。実際、諸国民たちからの出である我々は、打ち負かされ、凌駕され、彼の勝利のある諸々の戦利品のようなものとして存在し、我々の諸々の首を彼の恵みに服属させた。そればかりか、彼の誕生の場所も、ミカの預言の中に預言されている。彼は言う:「そして、あなたベツレヘムよ、ユダの土地よ。あなたは、ユダの指導者たちの中で決して小さくない。なぜなら、あなたから、私の民イスラエルを指導する指導者が出るだろう[23]」と。そして、預言者ダニエルが預言していた「諸々の年の諸々の週[24]」も、指導者キリスト(が来る)までに満たされた。また、ヨブによって巨大な獣を破壊するだろうと預言された者も現臨している[25]。その者は、ご自分の家族的な弟子たちに、諸々の蛇と諸々の蠍と敵の一切の力――敵からまったく害を受けずに――を踏み付ける権能を与えた[26]



[1] Cf.Mt.24,14.

[2] Cf.Rm.1,14.

[3] Cf.Mt.10,18.

[4] Cf.Mt.24,14.

[5] Mt.7,22.

[6] Cf.Gn.49,10.

[7] Os.3,4.

[8] Os.3,4.

[9] Cf.Gn.49,10.

[10] Dt.32,21.

[11] Cf.1Co.1,27.

[12] 1Co.1,26-28.

[13] 1C.10,18.

[14] 1Co.1,29.

[15] Ps.44,1-3.

[16] Ps.71,7.

[17] Ps.71,7.

[18] Ps.71,8.

[19] Cf.Is.7,13-14.

[20] Cf.Mt.1,23.

[21] Is.7,14.

[22] Is.8,9.

[23] Mi.5,2; Mt.2,6.

[24] Cf.Dn.9,24-25.

[25] Cf.Jb.3,8.

[26] Cf.Lc.10,19.

 

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