87 しかしながら我々は、悪意ある人たちによって向けれれた諸々の中傷それ自体が何であるか見よう。

第一のそれは、神の子は生まれざる方であると彼が言っていると、彼らが言っていることである。

第二(のそれ)は、彼がバレンチノスの諸々の作り事に従って放出を通して神の子が実存の中に来たと言っていると彼らが言っていることである。

第三(のそれ)は――それは、それらすべて(の中傷)とは甚だしく対立している――、彼がアルテマスやサモサタのパウルスに従って、神の子キリストが純粋な人間であって、すなわち神でもないと言っていると、彼らが言っていることである。

それらの事柄の次に来るのは、それらすべてに対立するもので――なぜなら(その)悪意は盲目的だからである――、救い主によって為されたすべての事柄が、見かけにおいて、すなわち考えにおいてのみ、そして歴史を通して報告されている諸々の事柄を通してでさえなく(ただ)寓意を通して為されたと彼が言っていると、彼らが言っていることである。

また他の中傷は、彼が二人のキリストたちを宣べ伝えていると、彼らが主張していることである。

また彼らは次のことも付け加える:すなわち、聖なる人たちの諸々の行いに関して一切の聖文書を通して報告されている諸々の身体的な歴史を彼がまったく否定しているということである。

そればかりか彼らは、死者たちの復活に関して、そして、不敬虔な者たちの諸々の罰に関して、軽微でない中傷によって彼を攻撃している――彼が、罪人たちに諸々の責め苦が課せられるべきことを否定しているとして。

しかし、ある人たちは、彼が魂の状態や経綸について論じた彼の諸々の議論や諸々の意見を非難する。

しかし彼に対する最終的な非難は、一切の侮辱と共に拡散されている者であるが、メテンソーマトーシス[1]――すなわち、諸々の人間的魂は、死後、諸々の蛇や諸々の家畜たちなどの無言の動物たちの中に移し替えられると、彼が主張しているということ、そして、無言の動物たちの魂そのものが理性的になるということ――の非難である。したがって、我々がその非難を最終的なものとして置いたのは、彼の諸々の書からより多くの判例を積み上げることによって、その(非難の)虚偽はより判然と知られるためである。



[1] 原語はギリシア語である。

 

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