沙門としてのブッダの革新性

 

朱門岩夫 著

1999年5月某研究機関に提出

 


 

 みずからの正統性を物語る正史編纂の意識を持ち合わせていなかった古代インドにあって、ゴータマ・ブッダがどのような青年時代を送り、またどのような思想を抱いていたかを正確に知ることは極めて難しい。

 ブッダの生没年に関しては二つの伝承が残されている。保守的な仏教教団であるセイロン上座部の伝承(南伝)によれば、ブッダの入滅の都市は、B.C.485年、進歩的なカシュミールの説一切有部の伝承(北伝)によれば、B.C.383年と推定されている。今日の学会では、前者が一般的である。また、ブッダがあまりにも人間的な仕方で、つまり食中毒で入滅したのが80歳のときであることが知られているから、彼の誕生の年代も上記の伝承に即して大体推計できる。いずれにせよ、ブッダは、B.C.4~5世紀に生きていた。

 

1.時代背景

 インドでは、B.C.3000からB.C.2000にわたって壮大な都市計画を持ったインダス文明が栄えていた。当時の支配民族はドラヴィダ人であると推定され、母系社会を形成し、後のヒンズー教と関係のある地母神やシヴァ神を崇拝していた痕跡を残している。やがてインド西方のヒンドゥークシ山脈からアーリア人が侵入し、先住のドラヴィダ人を隷属させた。彼らは、家父長制度によって社会生活を営み、牧畜と農耕を基礎産業とした。

 インド・アーリア人の残した遺産の中で最大で、今日のインド社会にもその痕跡を留めるヒンズー教の教えと階級制度であろう。B.C.1500~1000頃に成立したと見られる文学『リグ・ヴェーダ』によると、自然界の諸現象や諸要素が神格化され多神教が信じられたが、天地創造に関する思弁を通して宇宙の統一原理が探究された。そしてB.C.1000~800年頃発生した『ヴェーダ』の注解書群『ブラーフマナ』によると、その当時のインドでは、社会階層と職種が世襲化・固定化し、司祭(バラモン)、王族(クシャトリア)、庶民(ヴァイシャ)、隷民(シュードラ)のいわゆる四姓の階級制度が確立し、バラモン教の司祭が階級の頂点に立っていた。また、B.C.800年からB.C.200年にかけて次々と成立した古代ウパニシャド諸文献によれば、宇宙の統一原理がブラフマンとされ、このブラフマンは、個人に内在する統一原理たるアートマンと同一であるとされた。そしてカルマ(業)を根本原則とする輪廻転生思想と解脱が説かれていた。これがブッダの思想に影響を与えたことは、言うまでもないだろう。

 他方、古代インドは社会宗教面の発展ばかりでなく、それと平行して都市と経済も大いに発展した。ガンジス川中流域の肥沃な地方に定住すると、農耕が発達し、余剰生産が生じた。これが商工業と都市の発達を促し、合わせて貨幣経済を作り上げた。しかし商工業と貨幣経済の発達は、農耕という第一次産業に基礎を持つこれまでのバラモン的支配体制の根幹を揺さぶらずにはおかなかった。厳格牢固であったはずの四姓の階級制度の障壁はほころびを見せ、階級を上下する者も現れた。従来の社会的宗教的権威は、貨幣経済の進展に乗じて富を得た新興の資産家たちや王族の前に、その拘束力を失っていった。時代は、新しい権威と社会秩序を模索し、貨幣経済の勢いに押されて前のめりになった不安定な生活に統一と秩序を与える思想を探し求めていた。ブッダが生を受けたのは、このような時代であった。

 

2.自由思想家たち

 ブッダが生まれたB.C.4~5世紀頃のインドでは、バラモンを頂点とする農耕に基づく固定的な宗教的社会的権威は揺らぎ始め、新たな秩序と権威が新興階級によって模索されていた。当時、バラモンに対立する新しい精神的指導者として沙門(しゃもん)が現れた。彼らは、旧来の権威に拘束されない自由思想家たちで、一所不住の遍歴をしながら遊行し、托鉢を行なって暮らしていた。彼らは、生活形態によって遊行者、遁世者、苦行者、行乞者(比丘)に分けられた。出家して具足戒を受けた仏教の僧たちは最後者の比丘に算入される。沙門は、宗教的共同生活体(サンガ・僧伽)の主催者であり、教団の代表者であった。

 新たな時代の息吹を吸っていたこの沙門の共同体は、社会階級の頂点としてのバラモンの自負を打破し、階級や身分を問わずあらゆる人々の出家を認めた。仏教の創始者ブッダやバラモン教の創始者ヴァルダマーナが王族(クシャトリア)の出身であったことがそのことを証していよう。この時代、政治と経済におけるよう面において力を蓄えたクシャトリアの権威は、都市において、バラモンを凌駕していた。しかし彼らは、バラモンのように階級の頂点に鎮座するほどの己惚れはなく、人の守るべき法(ダルマ)を説く沙門の教えに耳を傾けた。

 自由思想家としての沙門の目指したところは、旧来の宗教的社会的権威では対応することのできない新たな時代の精神的息吹に、新しい世界観や人生観の提示によって応えることであったと言うことができよう。

 

3.自由思想家としてのブッダ

 当然、ブッダは、バラモン教の身分差別に反対する自由思想家の沙門の一人であった。彼はヒマラヤ山の小国サクヤ(釈迦)族の王子として生まれた。父は、スッドーダナ、母はマーヤーといった。ブッダの誕生については、母マーヤーが樹枝にすがりつつ、立ったままで彼を産み落としたという伝説が残されている。

 彼は王子として相応しい教育を受け、妻と一子を得たが、29歳または19歳で出家した。出家の理由は定かではない。彼は、当時の社会的習慣に従って遊行者のもとを遍歴し、やがて当時の文化の先進都市であったマガダに向かい、「新しい」価値観や指導理念を吸収しようとした。彼は、マガダ各地の遊行者のもとで瞑想と苦行とを繰り返したが、禅定の極意を修得したものの、厭世的傾向を持つ修定主義や、体力をいたずらに消耗するばかりの苦行主義に満足できず、それらのいずれをも捨て去った。しかし彼は、ある時、菩提樹の下で観想に耽っていると、ついに覚りを得た。そのとき彼は、35歳または30歳であった。覚りの内容については諸伝あって定かではない。それは、ブッダが覚りの内容を定式化することを欲せず、随機説法したことに起因している。しかしその点で、いずれの伝承も、釈迦の説法の一面をそれなりに伝えていると言える。

 彼は、愛欲と苦行の二極端をはなれた中道すなわち八正道と四諦(初転法輪)を説くことによって、享楽主義と苦行主義の極端に走る宗教界と袂を分かち、色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)五蘊における無我を提唱して、ウパニシャドに述べられたアートマンをも否定した。これは、四姓の階級制度を維持するバラモン教を根幹から覆すものであった。

 このようにブッダは、として旧来の宗教的権威に対峙し、徹底した平等を説くことによって自由思想家の列に加わると共に、中道というより人間的な覚りの道を選ぶことによって、自由思想家の中でも特異な地位を占め、かなり革新的であったと言うことができる。また、彼が随機説法を旨としてその教えを定式化しなかったことや、みずからの涅槃後の教団の長をあらかじめ定めなかったことは、権威主義的な人間の性を見据えての英断であっただろう。

 彼の革新性を一口に言えば、それは、権威に流れることなく、一般民衆に救いをもたらすことであったと言うことができる。

 

文献資料その他は、省略しました。