大乗仏教思想の本質と釈尊への回帰

 

朱門岩夫 著

1999年 6月某研究機関に提出

 


 

 ブッダは、生前、随機説法を旨とし、教団の教主を指定しなかったので、彼の入滅後、二十歳以上の男子出家者の共同生活体であるサンガ(僧伽)間の調整を図る規律が必要とされた。こうしてサンガの和合を図る僧伽羯麿が定められた。サンガは、比丘、比丘尼、沙弥尼、式叉摩那、優婆塞、優婆夷のいわゆる仏の七衆によってそれぞれ組織され営まれた。この内、在家の男子信者である優婆塞は比丘のサンガに従属し、在家の女子信者である優婆夷は比丘尼サンガに従属していた。後に発展する大乗仏教は、在家信徒の優婆塞と優婆夷を主体にして発展するのである。

 

1.部派仏教の成立と展開

 ところで、キリスト教の正典決定および教義の確定を図る公会議にも似た仏教の集会を結集というが、ブッダによって開始された仏教は、仏滅100(または110)年、すなわちB.C.4世紀に開かれた第二結集において、保守的な傾向をもつ上座部(スタヴィラ)と進歩的な傾向を持つ大衆部(マハーサンギカ)との間に根本分裂を起こした。この対立は、ヴェーサーリーのヴァッジ族出身の比丘らがサンガ(僧伽・宗教生活共同体)の戒律の内、金銀の授受および食事に関する不変の規律を時代の変化に対応させるために、付則を制定し、サンガの規律を事実上緩和させたことに起因している。上座部と大衆部の対立は、マウリヤ王朝の第三代国王アショーカ王(B.C.273~232)のときまでに、和解不可能なほど深い亀裂を生じさせていた。アショーカ王の努力によってインドには着実に仏教が広まったが、西暦起源前後までに仏教は、第二結集後の根本分裂以後、18部ないしは、20部におよび部派に別れ、部派仏教を現成させた。仏教のこれらの分派は、ブッダの教えの解釈や、指導者の相違、および地域的隔たりによって成立したもので、インド諸地方に広まっていた。中でも有部の勢力が最も大きかった。またこれらの諸部派は、独自の三蔵を編纂した。三蔵とは、サンガの生活規定である「律蔵」と、ブッダの遺教の集成である「教蔵」、およびブッダの遺教すなわち法の注解書である「論蔵」のことである。諸部派の教えは、他部派との論争の中で徐々に形を整え、各部派の論蔵に結実している。特に有部の教義は、『阿毘達磨大毘婆沙論』に集大成されている。

 

2.バラモン教の再興とヒンズイズムの形成

 以前にも述べた通り、仏教は、旧来のバラモン体制の辺境に位置し、新興経済の一大中心地であったマガダを中心にして、新しい時代の担い手たちである王族と新興資産階級の支持を得て発展したものである。しかしバラモン教に対抗する勢力が起こったとしても、新興勢力は都市部を中心としているだけで、インド社会の生産基盤である地方農村社会は、依然、バラモンの支配下にあった。

 やがてB.C.1世紀にアーンドラ朝(シャタヴァーハナ朝)が成立して、社会が安定してくると、それに乗じてバラモン教も勢力を盛り返し、社会、文化、宗教の上で主導権を獲得した。特にAD2世紀には、その公式言語であるサンスクリット語を全インド的な文化語とし、『マヌの法典』を成立させた。

 バラモン教は、その勢力を回復し、インド全土にその影響力を広めるために、土着の非アーリア的な俗信を多量に摂取し変貌を遂げ、今日インズイズムと呼ばれる新宗教にその姿を変容させた。インズイズムは、今日のインドの諸宗教の母胎になっている。

 叙事詩『マハーバーラタ』に収録されているヒンズイズムの根本聖典である『バガバッド・ギーター』によれば、ヒンズイズムは、土着の一神格バガヴァット(世尊)をヴェーダ聖典中の一神格ヴィシュヌと同一視し、人はヴァガバットすなわちヴィシュヌに対する純粋の信仰(バクティ)によって救われるとした。この点でヴィシュヌ崇拝は、民衆により身近なものになっていた。またヒンズイズムは、「化身説」を採用することによって、ヴィシュヌへの一神教を保持しつつ、在来の俗習を摂取していった。

 更にヒンズイズムは、元来、山神であったシヴァ神と生産の神たる母神ならびに原始的な生殖器崇拝とを合体して、陰陽の二原理の基づく宇宙創生の創造神に仕立て上げた。こうしてヒンズイズムでは、ヴィシュヌ神とシヴァ神は、ブラフマン(梵天)と共に三神一体を成している。勿論、このブラフマンとは、繰り返し述べるまでもなく、バラモン教思想で説かれる宇宙の根本原理で、自己の主体的原理であるアートマン(我)と究極的に同一であるとされているものである(梵我一如)。なおこのブラフマンは、仏教に取り入れられて梵天となった。

 

3.大乗仏教の隆盛

 他方、ヒンズイズムの形成に対応して、仏教側にも変化が現れた。B.C.4世紀の第二結集を契機に根本分裂を起こし様々な部派に別れた部派仏教は、いわば出家した比丘たちに指導された仏教であった。組織と教説の維持のためには、専従の奉仕者が必要であるから、在家信徒である優婆塞と優婆夷と並んで、比丘たちの集団がいわば専門集団として強い影響力を持つのは必然であったと言うことができる。

 たしかに比丘たちは、各自の所属する部派のために、釈迦の断片的な教えを整理し組織的まとめ、いわゆる論経、すなわちアビダルマと呼ばれる文献群を生み出すという功績を残した。しかしブッダの教えに関する論争が部派の間で長引くに連れて、彼らの説くブッダの教えは、高度に専門化し、民衆の理解を超えるものになってしまった。実生活において鎬を削る在家信徒にとっては、高度に専門化された比丘たちの社会についての教えは、おそらく現実離れした卓上の空論のように見えたこともあろう。このような部派仏教の状況を背景にして、いわばその反動として現れたのが大乗仏教である。

 大乗仏教は、ブッダの教えにもう一度立ち帰り、ブッダの教えをもう一度、一般大衆の手の届くところに押し戻そうとする運動であると言うことができる。振り返ってみると、仏教は、在家信徒の主体的な活動なくしては考えられなかった。ブッダの入滅に際して、荼毘の儀式は在家信徒に播かされ、また仏舎利は在家信徒の要望に応えて八ヵ所に分骨され、ストゥーパも建てられた。またストゥーパの管理も在家信徒の役割であった。在家信徒は、初めから仏教の要職を占めていたと言うことができる。在家信徒にとっては、難解な教理よりも、実生活の中で励みとなる単純明快な信仰の方がはるかに有益だった。やがて在家信徒の間で、民衆の釈尊への崇敬が、釈尊の超人化・神格化をもたらし、知的認識や祭儀の実践よりも、ブッダへの純粋な帰依が最重要視されるようになった。大乗仏教は、このような在家信徒の動きに押されて成立したのである。

 大乗仏教は、出家者という特殊な人々ばかりでなく、出家することのできない在家信徒の救いを目的とする宗教であった。大乗仏教における救いの根元は、ブッダの慈悲にあった。更にこの信仰運動は、みずからの悟りを求めて修行をし、同時に他の人々をも悟りに至らせようと努める理想的人間としての菩薩が生み出され、菩薩への信心も盛んとなり、仏の後継者としての観世音、弥勒、地蔵などが現れた。民衆教化のために造られた古代インドの仏教説話集であるジャータカでは、菩薩は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六種の実践修行(六波羅蜜)を実践することによって仏になったと言われている。特に菩薩の本質は布施と他利行にあるとされる。布施とは、仏や僧・貧者などに、衣服・食物などの品物や金銭などを施し与え、教法を説き、衆生から種々の恐怖を取り去って救うことであり、自己と他者との垣根を取り払った無我における他利行の内に完成されるものであった。要するに、菩薩にとって大事なことは、発心の際の誓願(本願)の成就、すなわち布施による衆生救済・慈悲行であった。菩薩信仰を中心とするこのような信仰運動は、人々を分け隔てなく救おうとした釈迦の本来的な教えへの回帰、あるいは回復であったということができる。

 民衆を中心に据えた以上のような信仰運動は、やがて以下に列挙する経典を生み出し、みずからを大乗と称した。そして、自己の得脱を主とする旧来の部派仏教を小乗と呼んだのであった。

 

4.大乗経典

 菩薩信仰を中心とする大乗仏教は、B.C.1世紀からA.D.1世紀にかけて独自の経典を幾つか生み出した。そのうち代表的なものを上げると、『般若経』、『法華経』、『華厳経』、『浄土経典』がある。それらはいずれも、衆生の悟りを普遍的な目的とするもので、菩薩信仰に基づき、それを深化発展させたものとなっている。

 結論として、大乗仏教は在家主義を本質とし、在家信徒、あるいは一般に衆生を対象にして形成されたと言ってよい。しかしこのような特質を見せる大乗仏教も、教理の組織化や教化指導、そして経典作成のためには、専門家集団を必要とし、やがてその指導権を出家修行者に委ねていくのもやむを得ないことであった。

 

文献資料その他は、省略しました。