古代中国における初期仏教の受容形態

 

朱門岩夫 著

1999年9月 某研究機関に提出


 

 仏教がいつ中国に伝来したかについては、諸説があって一定していない。有力な説としては、前漢の哀帝の元寿元年と後漢の明帝の永平十年が挙げられているが、現在に至るまで、両説とも完全な信憑性を得るに至っていない。しかしいずれにせよ、前漢の張騫や後漢の班超らの西域派遣に代表される漢帝国の西域経営によって東西交通が開け、活発化したことによって、仏教伝来の道が敷かれたということは、確実である。後漢の正史『後漢書』によれば、後漢の明帝の異母弟である楚王英(紀元一世紀の人)が黄老(道教の開祖である黄帝と老子)と仏陀を併せて信奉していたという記述があることから、仏教の伝来は少なくとも紀元一世紀半ば頃まで溯ることができる。

 さて、仏教が中国に伝来したとき、仏教はすんなりと中国民衆に受け入れられたものではなかった。世界の四大古代文明の一つの数え入れられる黄河文明(紀元前二二〇〇年頃〜紀元前一七〇〇年頃)が成立し、幾多の国家の興亡の末、ようやく統一を得た漢帝国には、高度な思想や宗教が発達し、民衆に行き渡っていたと考えねばならない。したがって本質的に外来の宗教である仏教が中国に伝来し受容されるには、在来の思想信仰と相当の思想的軋轢や相克あったと考えるのは、自然である。

 上に述べた通り、仏教が確実に伝来していたと思われる紀元一世紀中頃には、中国には大きな影響力を持つ思想信仰が存在していた。

 仏教伝来当時の中国(後漢)には、紀元前六〜五世紀の孔子に始まる儒教が支配体制維持のためのイデオロギーとして採用されていた。儒教とは、親愛たる仁を家族道徳の基本とし、それに基づいて修身・斉家・治国・平天下(自分の行いを正し、家庭を整え、国家を治め、天下を平らかにするという男子一生の美徳)を説き、国政の徳治主義・礼教主義を勧める倫理政治思想である。後漢の明帝は、このような儒教思想を奨励し、国内支配を人心の面から安らかにしようとしていたのである。

 このような儒教と並んで中国の民衆の間には、道教が広まっていた。道教は、中国に発生した民族的宗教で、仙人となって不死を得ることを窮極の目的として掲げている(不老不死の神仙方術説)が、その目的達成のために、戦国時代(紀元前五世紀〜紀元前三世紀)の諸子百家の一つ道家(老子、荘子、列子ら)による無為自然を取り入れて、宇宙の最高理法たる超越的な「道」に倣うべきであるという神秘主義的虚無主義を主張した教えである。道教は、後漢末の社会不安に乗じて民衆の支持を取り付け、更に陰陽五行説、讖緯説、儒教倫理、そして後には仏教教理などの諸要素を吸収しながら、張陵らの努力によって多神教的諸宗混淆的な宗教としての体裁と組織を持つようになった。

 このような中国社会および民衆の思想状況の中で、初期仏教はその伝教を開始した。既に冒頭に述べたように初期仏教は、これらの儒教および道教と対決せざるを得なかった。特に後漢末の社会不安のあおりを受けて儒教の礼教主義的徳治主義が人望を失って、道教が盛んになると、仏教は、道教との対話や論争を強いられた。そのような過程の中で仏教が取った伝教の方法は、仏教の教えを中国民衆の道教的(儒教的)理解に合わせて説明し、それを民衆に近づきやすいものにすることであった。

 また儒教の形式的礼教主義や道教の通俗的な現実主義に長い間馴らされていた中国民衆は、高度な認識論的信仰をすぐさま理解し受容するのは困難であり、そもそもインドの宗教である外来語宗教がどのようなものであるかは彼らには不明であったから、彼らが仏教を自国の概念装置を用いて仏教を理解しようとするのは至極当然のことであった。したがって中国における仏教の伝教は、いやがうえでも彼らの思想的な枠内でみずからを表現せざるを得なかった。このように中国民衆に固有の思想信仰に即してその教えを伝える仏教を「格義仏教」と言う。

 格義仏教は、道教の神秘的虚無主義が仏教の一切皆空の思想に酷似していることに基づいて展開された。『後漢書』によれば、既に後漢の明帝の異母弟である楚王英(紀元一世紀の人)が、道教の開祖とされる黄老(黄帝と老子)と浮屠(仏陀)とを合わせて信奉していたということは、中国人が道教的な立場で仏教を理解していたということを意味している。道家あるいは後の道教の教えをもう一度繰り返せば、それは、自己の欲望を制して、無為自然の自適の生活を楽しみ、神仙方術によって精神と肉体の平安と不老長寿を得ようとするものであった。これは、仏教の一切皆空の教えと酷似してたのである。

 格義仏教の代表者は、竺潜の本無義、支遁の即色義、竺法蘊の心無義、および仏図澄(二三二〜三四八)とその門下生の道安(三一二〜三八五)であった。特に仏図澄は、数々の神異を表わして神変不可思議な術を用いて民衆を瞬く間に教化したが、これは彼の伝教方法が当時の神仙方術的な道教の教えと合致していたからである。

 しかし彼らに先立ってこのような格義仏教に理論的な裏付けを与えたのは牟子である。彼は、後漢末の中国人で、当初儒教を信奉し、儒教の立場から道家の神仙方術思想に反対していたが、やがて天下の混乱と社会不安の中で老子の教えや儒教の教えを学びつつ仏教を学び、『理惑論』を著して、儒教と道家と仏教の融合を図ったのである。この書は、三十七の問答からなっており、仏教と老荘の思想とは相反するものでなく、調和するものであることを示していた。ただし彼は、無為の思想の内に道家の教えと仏教の教えの接点を求めているが、道家の神仙方術思想は斥けている。いずれにせよこの牟子の著書は、中国における儒教と道教と仏教の三教交渉についての貴重な資料となっている。

 そして先ほど簡単に言及した仏図澄が道教の虚無主義的神仙方術的思想信仰に合致する形で仏教を伝道し、その門下の道安が道教的立場から、『般若経』の一切皆空の思想を道教の虚無主義的立場に立って理解し、仏教の教えを広めていったのである。また道安の弟子も『般若経』の研究に専念することによって仏教の普及に多大の貢献をした。

 このように中国における初期仏教の布教方法は、中国に土着の民間信仰に染まった民衆にも馴染みやすいように、土着信仰と仏教徒の接点を求め、一切皆空、無相皆空の理を説く『般若経』に見出していった。

 しかしこのようは布教方法を取る仏教(格義仏教)は、道教との確執を強め、やがて両者とも互いに他を真似るところまで極端化していった。道教は仏教に似せて経典を作成し、仏教はますます道教的色彩をとり、孔子と顔淵と老子は菩薩の化身であるとする三聖仮現説を裏付ける偽経まで作り上げた。仏教側におけるこのような行き過ぎは、やがてその反動として、『般若経』の一面に偏することなく仏教の真実義を極めようとする「義解仏教」を生み出していくことになった。

 概して格義仏教時代の布教方法は、土着信仰との対話と適応にあったと言うことができよう。このような布教方法は、同時期の地中海世界において、ヘブライ的キリスト教がヘレニズム世界に浸透するために取った方法とまったく同じであると言うことができる。キリスト教は、ヘレニズム思想を摂取しつつ、時に多くの偽典、分派を生み出しさえしたのである。

 

文献資料その他は、省略しました。