訳者による後書き
この小冊子は、フランス在住のドミニコ会員スール・マリア・アンシッラの小論の翻訳である。この小論の厳密な評価は読者各位に委ねるとして、翻訳後記としてここに訳者の率直な感想を二三述べさせていただきたい。
常日頃、聖ドミニコの霊性に関心を持っていたわたくしにとって、かのじょの小論は、聖ドミニコの霊性の解釈に新たな可能性を開く画期的な作品として映った。わたくしの知るかぎり、ドミニコの霊性を現代に伝える基礎的な直接資料は、彼が司教座聖堂参事会員より始めて、終生従い続けた「聖アウグスティヌスの戒律」、彼自身が手がけたドミニコ会のいわゆる「原始会憲」、および彼の後継者でありドミニコ会第2代総長となったジョルダノ・ド・サクスの「説教者会創立史小著」(
Libellus de principiis Ordinis Praedicatorum)などのごくわずかの作品に限られていた。このあまりの資料の少なさに、ある敬虔な識者は、次のように述べている。聖ドミニコの残したものはこれらの著作および彼の手になる4通の短い書簡の他になにもない。しかし彼はもっと偉大なものを残した。それは、彼の精神とカリスマを継承し、全世界で説教を続ける聖ドミニコ修道会そのものである、と。またある者によれば、聖ドミニコに固有の霊性はない。強いて言えば、宣教を粘り強く続ける教会そのものが彼の霊性である、とのことである。たしかにこれらの発言は、いかにも正鵠を獲た発言であり、真摯に受け止められねばならない。しかしそれでも、聖ドミニコそれ自身の霊性を、現代にあっても聖ドミニコのカリスマを忠実に実践し続けるドミニコ会員の躍如とした姿のなかに、あるいは世界に広がり福音を告げる教会の宣教活動のなかに垣間見るだけでなく、さらに文献を通しても、その霊性に触れてみたいものである。その点で、スール・マリア・アンシッラのこの小論は、従来の視点とは異なって、人の意表を突くまったく新しい視点から、聖ドミニコの霊性を開示しているとても画期的な論述であると、未熟者のわたくしには思われる。詳しい説明は避けるとして、確かにかのじょの小論は、従来のアプローチを離れて、聖ドミニコこの霊性を、カッシアヌスの著作をとおして、しかも霊性史というより広い背景のなかで(結論参照)、みごとに映し出しているのである。かのじょによれば、聖ドミニコの霊性の源泉あるいは素地は、カッシアヌスの著作であり、その背後には砂漠の師父たちの広大な霊性史が横たわっている。実に興味深い論述である。
ところで、先日わたくしは、この小論に啓発されて、ことのついでにカッシアヌスの「共住修道会則」と「先人たちの諸講義」の二著を紐解いて通覧し、妙なことに気が付いた。それは、かのじょがこの小論で取り上げていないことであるが、カッシアヌスがこの両著で引用する聖書の個所は、八割近くが「マタイによる福音」と、いわゆる「パウロ書簡」の二作品だということである。ジョルダノ・ド・サクスは、聖ドミニコが説教行脚中でも常に携帯して、肌身離さなかった書物は、この「マタイによる福音」と「パウロ書簡」であったという。羊皮紙に書かれていた当時の聖書は、だいぶ嵩張り、随分と重たいものであったから、ドミニコは動きやすいようにこのお気に入りの二著だけを持ち歩いたというのが、これまでの定説である。スール・マリア・アンシッラに触発されていえば、ドミニコがこの二著を好んだ理由は、明らかである。それは、彼がその霊的素養を、カッシアヌスの著作のなかに汲み取り、育んだからである、とわたくしには思われる。
是非ともこのわたくしも、せめて一度はカッシアヌスの作品を完読して、ドミニコの霊性の源に手ずから触れてみたいものである。ちなみにカッシアヌスは、エジプトで、生っ粋のオリゲネス主義者エヴァグリオスに師事していたが、オリゲネス異端論争が始まるや当地を離れ、コンスタンティノープルに身を移したという妙な経歴の持ち主である。