観想

 

悪徳から自由になり、愛徳に満たされて清められた心は、絶えず神に寄りすがり、観想に専念することができる。そしてこの観想は、なによりもキリストの観想である。

「我々の考えでは、キリストの観想から一瞬たりとも離れるのは不純である。したがって我々の視覚がこの神的な対象からわずかでも逸れたなら、我々は、我々自身の心の目を再びそれに向け、精神の眼差しを一直線にそこに戻すことにしよう(12)」。

カッシアヌスは、観想のなかにいくつかの段階があることを認める(13)。その頂点は、到達するのは希であるが、ただ神だけを観ることである(14)。しかしそれは、「約束された希望の内にいまだ隠されている、神のあの知られざる幸いなる本性に驚嘆しつつ見とれること(15)」ではない。とはいえ神は、「清らかな直観の内に」見られるのである。それは、「心の清らな人は幸いである。彼らは神を見るであろう」という主の約束に関わるヴィジョン(vision)である(16)。永遠のいのちという到達点は、ある意味で、すでに観想のなかで達せられているのである(17)。これは神の国の先取りであり、愛が神を見ているのである。

魂は、清らな祈りのなかで、形象なき光のなかに没入する。「魂は、言葉の記憶や、どのような形態のものであれ、いかなる種類の行動の観念をも受けいれない(18)」。肝心なことは、「祈りの絶えざる静寂」、「魂の不動の静寂」である。精神はその静寂において、ひたすら「来るべき事柄」を観想し、「見えざるもの」以外には、もやはなにものも望まない。魂は、「天の事柄の観想によって、今やみ言葉と一つになる」。こうして魂は、神と神に属する事柄とに寄りすがり、しばしば脱魂状態(extase)となる。

この端的な意味での観想のなかで、認識能力は全面的に神の支配下に置かれる。そして認識能力は、常日頃それらの能力を独占していた一切のものから解き放たれる。観想はこのようにして、神との深い一致を実現する。もちろんこの実現の仕方は、認識能力と情意的能力との間では、さまざまに異なる。

聖書は、観想のための手本を提供している。子どもが字の書き方を習うために、文字の手本を眺めることから始め、次いでそれを再現する練習を積み重ねるように、観想に到達しようと望む者も、手本を持たねばならない。

「あなた方は、手本にあなた方の視線を執拗に向けておかねばならない。こうしてあなた方は、その手本をあなた方の精神のなかで絶えず思い巡らすことができるようになる。そしてそれがあなた方の救いとなる。あるいはあなた方は、その手本を利用し、それを黙想することにより、一層高邁な見地に昇ることができるようになる(19)」。

この手本とは、詩編の一節である。「私の神よ、私を助けに来てください。主よ、急いで私を助けてください」観想は、その源を聖書のなかに持っている。

 

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