11 これらのことに関しては、たんに信仰するだけでなく、理性によってこの問題を考察する人は、網羅的な探求を通して出会い見出した証明を上げるだろう。すべての人事が信仰に依存しているとすれば、それらの人事を越えて神を信じることがどうして一層理にかなっていないのだろうかと。実際、いったい誰が、禍が起こるかも知れず、またしばしば起こるにもかかわらず、良いことが起こるのを信じないで、船旅をしたり、結婚したり、子どもをもうけたり、地に種を蒔いたりするであろうか[1]。むしろより良いことや望みにかなうことが起こるという信仰が、先行き不明で違った結末を見るかもしれない事柄に対して、すべての人を大胆にさせるのである。どうなるかわからない先行き不明のすべての企てにおいて、希望と、将来のことに関するよりよい信仰とが人生を支えているとすれば[2]、漕ぎ渡る海や種蒔く地、結婚する女、あるいはその他の人事を越えて神を信じる人に、このような希望と信仰が受け入れられるのがどうして理にかなっていないだろうか。神は、これらすべてのものを創造なされたのであり、卓越した寛大さと偉大な神的配慮によって、数々の大きな危険や不名誉と見なされた死にもめげず、この教えを地上の至るところに住む人々に敢えてお示しになったのである。神は、これらの危険や死を人々のために耐え忍ばれたのであり、その上、はじめにご自分の教えに従うことに決めた人々に、すべての危険や常に待ち受けている死にもかかわらず、人類の救いのために敢えて地上の至るところに行くように教えたのである。
[1]
船旅、結婚、出産、種蒔の例は当時の常套句で、キケロの証言によれば、後期アカデメイア派(懐疑派)の創設者クリトマコスに遡る。Cf.Cicero,
Lucullus, 109.
[2]
フィロンは、「希望は、人生の源である」と言っている。Cf.Philo,
De Praem. Et Poen.11.