13 またケルソスは、多くのキリスト者によって言われていることとして、「この人生において知恵は悪であるが、愚かさは善である」という言葉を引用しているので、次のように言わなければならない。すなわち、ケルソスは、パウロ(の書簡)に見られる言葉そのものを引用していないで、この教えを中傷していると。(パウロの書簡には)こう書かれている。「もしも誰かがあなた方の内で賢い者と思われたいなら、賢い者となるために、この代で愚か者となりなさい。なぜならこの世の知恵は、神のみ前では愚かなものだからです[1]」と。してみると使徒は単純に、「知恵は、神のみ前で愚かである」と言ったのではない。むしろ「この世の知恵は」と言ったのである。また使徒は、「もしも誰かがあなた方の内で賢い者と思われたいなら」、単純に「愚か者となりなさい」と言ったのではなく、賢い者となるために、この代で愚か者となりなさい」と言ったのである。したがって我々は、聖書によると今では無効となった偽りを教えるすべての哲学が「この代の知恵」であると主張する。また我々は、愚かさが無条件に善であるとは言わず、人がこの代に対して愚か者となったとき、愚かさは善であると主張する。それはあたかも我々が、魂の不死と魂の輪廻転生とを信じるプラトン主義者も、ストア派の人々やペリパトス派の人々、エピクロス派の人々の目には愚かであると言うようなものである。ストア派の人々はこのような説を同意することを嘲笑し、ペリパトス派の人々はプラトンの鼻歌をとやかく言い、エピクロス派の人々は、摂理を導入して万物の上に神を立てる人々に対して、それは迷信であると言っているのである。さらに我諸々の教えを単純な信仰によって同意するよりも、理性と知恵によって同意する方がはるかに優っているとするのが聖書の教えにかなっているということ、そして場合によってはみ言葉は、人々がまったく助けのないまま放置されることのないよう、この単純な信仰の方お望みになったことを、イエスの正真正銘の弟子であるパウロが明らかにして言っている。「事実、世界は、神の知恵の内にあるのに、知恵によって神を知るにいたりませんでした。それで神は、宣教の愚かさによって、信じる人々を救うことをよしとされましたのです[2]」。したがってこれらの言葉によって、神は神の知恵において知られるべきであったことが明らかに示されている。そしてこのことがその通りに実現しなかったので、神は次に、たんに愚かさによってではなく、宣教に関わる愚かさによって、信じる人々を救うのをよしとされたのである。まさにこういうわけで、十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えることは、宣教の愚かさである。それは、パウロも同じことに気づいていて、こう言っている通りである。「しかし私たちは、十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えます。キリストは、ユダヤ人にとっては躓き、異邦人にとっては愚かですが、ユダヤ人であれ異邦人であれ召された人にとっては、神の力、神の知恵なのです[3]」と。



[1] 1Co.3,18-19.

[2] 1Co.1.21.

[3] 1Co.1,23-24.

 

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