17 そして彼は、大部分がオルフェウスによって書き記された人間の感情を持つとされる神々についての神話を意図的に忘れ、続いて次の個所でモーセの物語を非難して、その物語を予型論的に解釈したり比喩的に解釈したりする人たちを責めている。自分の本に『真の言葉』という題名を付けたこの高貴極まりない男に対して次のように言うことができよう。神々は、あなたの賢明な詩人たちや哲学者たちが書き記したような諸々の災難に陥ったり、忌まわしい交際の数々にふけったり、また、父たちに戦いを挑んだり、それらの急所を切断したりしている。しかし一体なぜあなたは、これらの神々がこのようなことを敢えて行ったり引き受けたりしているのが(物語に)書き記されていると厳粛な面持ちで言うのか。これに対してモーセが、神についても、また聖なる使いたちについても、そのような悪行を語らずに、人間たちについて(それらの悪行に比べたら)はるかに取るに足らない悪行を語るとき――実際、モーセの物語では、クロノスがウーラノスに対して行ったようなことや、ゼウスが父に対して行ったようなことを敢えて行った者は一人もいなし、「人間どもと神々との父[1]」が自分の娘と交わったことも(モーセの物語には)ない――、彼は、自分が律法を与えた人々を欺いて、彼らを迷わせていると見なされるのか。ケルソスは、まさにプラトンのトラシュマコスと同じようなことをやっているように私には見える。トラシュマコスは、ソクラテスが正義について思い通りに答えることを許さず、こう言っているのである。「正義とは利益であるとか、当為であるとか、その他それに類する何かであるとか、あなたは言わないようにしなさい[2]」と。このケルソスもまた、モーセの書にある数々の物語を非難し、それを比喩的に解釈する人々をけなしていると思い込んでいるが、それとともに彼は、比喩的に解釈する人々に対してある種の賛辞さえ述べ、彼らは理にかなっているとまで言っているのである[3]。そして彼は、望みどおりに非難することで、事柄が本来どうなっているかを弁明できる人たちが、そのように弁明するのをいわば禁じているのである。



[1] Cf.Homer, Il. I, 544 etc.

[2] Plato, Rep.336 CD.

[3] Cf. CC. IV, 38.

 

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