次に彼は、「その教え、すなわちキリスト教が依存するユダヤ教は、本来的に野蛮だ」と言っている。そして実に賢明なことに、彼は、野蛮人起源という理由で(福音の)み言葉を非難しない。なぜなら彼は、「野蛮人たちには数々の教えを見出す能力がある」と言って賞賛しているからである。しかし彼はこれに付け加えて、「ギリシア人たちは、野蛮人たちによって発見されたものを判断し、確証し、徳のために実践する点でより優れている」と言っている。さてキリスト教にある教えが真実であることを弁明するために、我々がケルソスの言葉に対して答えることは次のとおり。ギリシアの教えと訓練を受けてきた人がみ言葉に到った場合、彼は、キリスト教にある教えが真実であると判断するばかりでなく、それを実践することによって、ギリシア人の証明では欠陥と見えるものを埋め合わせ、キリスト教の真実さを明らかにするだろう。さらにこう言わなければならない。み言葉には、問答法によるギリシア人の証明よりももっと神的な固有の証明がある。使徒は、このより神的な証明を、「霊と力による[1]」と名づけている。「霊による」とは、特にキリストに関する預言を読む人たちに信仰をもたらすことのできる数々の預言のゆえに。「力による」とは、諸々の驚異的な力ある業のゆえにである。これらの驚異的な力ある業は行われたことは、他の多くの事柄によっても、またみ言葉の意図に従って生活する人たちの許にいまだに保たれているそれらの業の数々の痕跡によっても、当然、明らかにされよう。



[1] 1Co.2,4.