24 これに続けてケルソスは次のように言っている。「山羊飼いと羊飼いたちは、いと高き方と呼ぼうが、アドナイと呼ぼうが、天におられる方とか、万軍の主とかと呼ぼうが、あるいは彼らが好むやり方でこの世界に与える名前で呼ぼうとも、神は唯一であると思っていた。そして彼らは、それ以上のことを何も知らなかった[1]」と。ケルソスは言葉を続けて、次のように言っている。「万物に位する神を、ギリシア人たちのもとで使われている名を使ってゼウスと呼ぼうが、あるいはたとえば、インド人たちのもとで使われている名やエジプト人たちのもとで使われている名で呼ぼうが、何の違いもない」と。これに対しては、次のように答えなければならない。この問題には、諸々の名前の本性に関する深淵で曰く言い難い理論が関わっていると。諸々の名前は、アリストテレスが考えているように、因習的に存在するのだろうか[2]。それとも諸々の名前は、ストア出身の人たちが考えているように、自然的に存在しているのだろうか――(諸々の名前の)第一声は、それぞれの名前が現す事柄を模倣してい、彼らは、まさに語源学の幾つかの原理を導入しているのである――[3]。あるいはエピクロスが、ストア出身の人たちの考えとは別の仕方で教えているように、諸々の名前は自然的に存在していて、人々の第一声が、それぞれに事物に対応する声の何がしかを発しているとされているのである[4]。そこで、もしも私たちが、主導的な理性を働かせて、現行の言葉の本性を明らかにすることができれば――これらの現行の言葉のいくつかは、エジプトの賢者たちやペルシアの博学なマギやインドで哲学をしているブラフマナやサマナイオスの人たちによって使われており、したがってそれぞれの民のもとで使われている――、そしてもしも私たちが、次のことを立証することができるのであれば、すなわち、いわゆる魔術が、エピクロス派の人々やアリストテレス派の人々が考えるように、首尾一貫性のまったくかけた実践ではなく、むしろそれらの事柄について精通した人々が明らかにしているように、首尾一貫したものであって、非常にわずかの人間にしかその理拠が知られていないだけであるということを立証することができれば、私たちは、万軍の主とかアドナイ、その他、ヘブライ人たちのもとで大変うやうやしく伝えられてきた名前が、偶然に生じた被造的な事跡に基づくものではなく、万物の造り主に向けられた曰く言い難いある種の神知に基づいている[5]と言うことができるだろう。それゆえ、これらの名前は、それらに共通する本性的な連関に即して語られるなら、それ相応の効力をもつのである。たとえば、エジプトの言葉で、特定の事柄だけに効力を発揮するある鬼神たちにそれらの名前が発せられた場合や、ペルシア人たちの言語でそれらの名前が別の霊的存在者に向けて発せられた場合に、それらの言葉は、効力をもつだろう。またそれぞれの民族においても、それらの名前は様々の効用のために使われているのである。同様に、地上の様々な場所を占有する鬼神たちの名前は、それぞれの場所と民族の言葉に応じて発せられている。したがってこれらのことについてわずかでも優れた理解を得ることができた人は、それぞれの名前をそれぞれに対応する事柄に一致させなければならない。それによってその人は、神という名を誤って魂のない質料に帰したり、善という名称を第一原因や徳、あるいは美から闇雲な富に引きずり下ろしたり、その善を、健康と安楽をもたらす肉と血と骨の均衡やいわゆる高貴な生まれに引きずり下ろす人々の二の前にならないようにしなければならない[6]



[1] 多名神の問題は、プラトンの『ティマイオス』(28B)でも触れられている。唯一の神が多くの名前を持ち、様々な形で礼拝されていると言う考え方は、当時のヘレニズム世界では、かなり一般的な考え方で、ストア派の神論に顕著に見出される(Diog.Laert. VIII, 235; SVF, II, 1070).。同じ考えは、ストア派以外では、イシス信仰(Plut., De Is. et Os., 67)、オルフェウス教(Macrob., Saturn., 1, 18)、フィロン(De Decal. 94)、錬金術(Asclepius, 20)に見出される。

[2] Aristotle, De Interpr.2 (16a, 27). Cf. Origen, Exh.Mart.46; Clemens. Al., Strom.1, 143, 6; Albinus (Middle Platonist), Ep.6.

[3] Cicero, De Nat. Deor. III, 24, 62; Diogenianus ap. Eus.P.E. VI, 8, 8, 263 CD.

[4] Epicurus, fragm.334; cf. Lucretius, V, 1028s.

[5] ouvk evpi. tw/n tuco,ntwn kai. genhtw/n kei/tai pragma,twn avll~evpi, tinoj qeologi,aj avporrh,tou( avnaferome,nhj eivj to.n tw/n o[lwn dhmiourgo,n

[6] ストア派によると、富や高貴な生まれ、健康は、善と悪の中間に位置する望ましいもの(prohgoume,na)である。また「闇雲な富(tuflo.j plou/toj)は、プラトンの言説に由来する。Cf. Lois, 631B-C.

 

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