これに続けて彼は、「キリスト者はひそかに、自分たちに都合のよいことを行い、教えている」と言い、これについて次のように言っている。「彼らがこれを行うのは理由のないことではない。なぜなら彼らは、自分たちに降りかかる死の裁きを避けようとしているからだ」。そして彼は、この危険をたとえばソクラテスが哲学のために蒙った危険になぞらえている。彼はまた、ピタゴラスやその他の哲学者たちの名をあげることができただろう。これについては、次のように言わなければならない。ソクラテスの場合には、アテナイ人は直ちに後悔し、彼についてはいささかの敵意も残らなかった。ピタゴラスについても同様である。ともかくピタゴラス派の人たちは、大ギリシアと呼ばれるイタリアで長い間存続した。他方、キリスト者の場合、ローマの元老院、同時代の皇帝たち、軍隊、市民、そして信者の親族が、(こぞって)み言葉に戦いを仕掛ければ、み言葉は、これほど多くの人々からの陰謀に妨げられ、打ち負かされたことであろう。ただしこれは、み言葉が、神の力によってこの陰謀を乗り越え克服し、ご自身に陰謀を企てる世界全体に対して勝利を収めなかったとすればの話である。