31 これらのことに加えて、人はどうして次のことがイエスの弟子たちに起こるのか不思議に思うかもしれない。すなわちイエスを中傷する者たちが言っているように、彼の弟子たちが、イエスが死者の内から復活するのを見たこともなく、またイエスが何かしらより神的なものであることを確信することもないにもかかわらず、師と同じ苦しみを受けることを恐れないばかりか、すすんで危険に向かい、イエスによって自分たちに伝えられた教えを、彼の意向に従って教えるために祖国を後にしたのはどうしてかと。たしかに私が思うに、これらの事柄を慎重に検討する人は、イエスが彼らの内にもたらした何らかの大きな確信がなければ、彼らがイエスの教えのために自分たち自身を束の間の人生に奉げることはなかったと言うであろう。イエスは、彼らがご自分の教えにかなう態度を取るように教えたばかりでなく、他の人々にもそういう態度を取るように教えることによって、このような大きな確信をもたらしたにちがいない。――しかも敢えて至る所ですべての人に対して新しい教えを唱道し、旧来の教えと習慣とに固執している人の誰とも友好関係を持たないようにする人にとっては、人間の生命に関わるような破滅が予想できるにもかかわらず、イエスは、他の人々にも似たような態度を取るように教えるのである――。そうであれば、イエスの弟子たちはこのことを弁えた上で、ユダヤ人に対しては、この方こそ預言された方であることを数々の預言の言葉から大胆に証明したばかりでなく、他の諸国民に対しては、近ごろ十字架につけられた方が、猛威を振るう有害な疫病や飢饉、暴風雨を鎮めて祖国を救うために死んだ人々と同じように、人類のためにみずから進んでこの死を引き受けたことを明らかにしたのではいだろうか。当然、これらの事柄の本性の中には、多くの人々には把握し難い何かしら言いようのない数々の理拠に従って、次のような特質が含まれている。すなわち一人の義人が公共のために進んで死ぬことによって、疫病や飢饉や暴風雨、その他それらに類するものを引き起こす邪悪な悪霊どもを追い払うための犠牲となるという特質である。

 したがってイエスが十字架によって人々のために死んだことを信じようとしない者たちは、ある人たちが町々や諸国民を襲った悪を取り除こうとして公共のために死んだことを物語るギリシア人や夷狄の人たちの多くの物語も受け入れるつもりはないのかどうか言うべきである。それとも、これらの物語は実際に起こったことであるが、しかし彼らの言うあの男が、悪霊どもの首領であり、地上に生を受けたすべての人々の魂をことごとく支配下に収めた大悪霊を打ち倒すために死んだことについては、信用に値しないと言うのだろうか。しかしこれらのことを目撃し、これら以外にも、もっと多くのことをイエスから密かに教えられていたと思われるイエスの弟子たちは、更に何がしかの諸々の力に満たされたのである。なぜなら彼らに力と勇気を与えたのは、詩人が作り出した架空の乙女ではなく、真実に神の思慮と知恵であったからである。そしてその結果、彼らは、アルゴス人の間ばかりでなく、すべてのギリシア人や夷狄の人たちを含め、すべての人たちの中で際立ったものとなり、優れた名声を高めたのである[1]



[1] Cf.Homer, Il,V,1-3.

 

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