35 しかしヘブライ語の言葉を受け入れるべきか否か分からない人たちに対して、その誕生に関連して「神は私たちと共に」と言われている方が乙女から誕生することを告げる預言について、ヘブライ語の言葉に基づいて説明していると思われないようにするために、我々は、(ギリシア語の)聖書の言葉から同じことを説明してみよう[1]。主は、アハズに次のように言ったと書かれている。「あなたは、あなた自身のために、あなたの神なる主から、深みに、あるいは、いと高きところにしるしを求めよ」。これに続いて、「見よ、乙女がその胎に身ごもって、男の子を産む」というしるしが与えられると書かれている。さて、乙女ではない少女が子を産むとすれば、このしるしはどのようなものになるのか[2]。そして「インマヌエル」すなわち「神は我らと共に」を産むのは、どちらに相応しいのか。男と交わり、女の情念によって妊娠した婦人なのか、それとも依然として純潔で清い乙女なのか。もちろん、その誕生について「神は我らと共に」と言われている子を産むのは、後者の乙女の方が相応しい。ところが真相がこうであっても、ケルソスが詭弁を弄して、「あなたは、あなた自身のために、あなたの神なる主からしるしを求めよ」という言葉はアハズに対して言われたと主張するなら、我々はこう応じることにしよう。その誕生について、「インマヌエル、すなわち神は我らと共に」と言われる方が、アハズの時代に誰か生まれたのかと。(アハズに時代に)誰も見つからないとすれば、アハズに言われたことは明らかに、ダビデの家に言われたものであろう。なぜなら「ダビデの種から」救い主が、「肉に即して」生まれたと書き記されているからである[3]。そればかりかこの「しるし」は、「深みや高みに」あると言われている。なぜなら「万物を満たすために、降りてこられた方と、諸々のすべての天を超えて昇られた方とは同じ方[4]」だからである。ともあれ預言に同意するユダヤ人に対して、私は以上のことを述べて見た。ケルソスや彼に組する者は、どのような精神で預言者が未来について、預言の書に書き記されているあれこれのことを言ったのか述べてみるがよろしい。果たして預言者は、未来を予知する精神を持っていたのか否か。未来を予知する精神を持っていたとすれば、預言者たち、神的な霊を持っていたことになろう。しかし預言者が神的な霊を持っていなかったとすれば、ケルソスや彼に組する者は、未来について大胆に語り、その予言のゆえにユダヤ人たちの間で驚異の眼差しで見られている預言者の精神を説明してみるべきである。



[1] ヘブライ語の使用に関する同じような気遣いと弁明は、『民数記講和』(27,13)にも見出される。

[2] Cf.Justin, Dial.84; Tertullian, Adv.Jud.9; Adv.Marc.III,12.

[3] Rm.1,3.

[4] Ep.4,10.

 

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