また我々は、彼が「(キリスト教の)倫理が当たり前なもので、他の哲学者たちと比べて、厳かなものでも真新しい教えでもない」として何とか非難しようとする様を見てみよう。これについては次のように言わなければならない。もしもすべての人々が、共通観念に基づいて倫理についての健全な先取観念を持ち合わせていなければ、神の正しい裁きを受け入れた人々は、罪人に臨む裁きをおそらく否定するだろう[1]。したがって同じ神が、預言者たちや救い主を通して教えたことを、すべての人々の魂の中に植え付けたとしても、驚くべきことではまったくない。それは、それはすべての人が、神の裁きの前で言い訳のできないようにするためである。なぜなら人間は、その心の中に「書き記された律法」の要求を持っているからである[2]。このことは、神がみずからの「手で」掟を(石版に)お書きになり、それをモーセにお与えになったとするみ言葉――ギリシア人たちは、このみ言葉を神話と見なしているが――によって暗示されている[3]。子牛の像を作った人々の悪が、この掟(の石版)を粉々に砕いてしまった。それはあたかも罪の洪水が(それを)飲み込んでしまったと言っているかのようである。ところが神は再び、モーセが石を切り出すと、(掟を)お書きになり、(それを)与えられたとある[4]。それはあたかも預言のみ言葉が、最初の罪の後で神の第二の(掟の記された)書物のために、魂を備えさせているかのようである[5]

 



[1] 「共通観念」、「先取観念」は、ストア派の用語である。ただしストア派の学説に従えば、これらの観念は、経験に基づいて形成されるもので、生得的なものではない。Cf. Aetius, Plac. IV, 11 (SVF II, 83)

[2] Cf.Jr.31,33; Pr.7,3; Dt.30,14; 2Co.3,2-3; Rm.2,14-15.

[3] Ex.31,18: 本節は、叙述の意図(序文)に反して少しも平易ではないが、オリゲネスはキリスト教の倫理が真新しいものではなく、当たり前であることを、ストア派の学説と聖書の律法概念とを結びつけて正当化しようとしているのである。キリスト教の掟は、既にすべての人の心の中に書き込まれている。

[4] Ex.34,1.

[5]本節の最後の一文は、旧約の掟と新約の掟とが、度重なる違反にもかかわらず、一貫していることを示している。