46 律法と預言書には、イエスが洗礼を受けたときの鳩や天からの声について書き記されているのと同じような諸々の逆説的なことに満ちている。また、イエスによって行われた諸々の不思議が、聖霊が鳩の姿の内に見られたことの証明であると、私は思っている。ただしケルソスは、イエスがそれらの諸々の不思議の行い方をエジプト人たちのもとで学んだと言って非難しているが。しかし私は、それらの不思議を利用するばかりでなく、当然、イエスの弟子たちが行った諸々の不思議も利用したい。実際、それらの力ある業や不思議な業がなかったら、使徒たちは、新しい言葉と新しい教えを聞いた人たちを動かして、因習的なものを後に残して、死に到るまでの諸々の危険を伴いながら使徒たちの教えを受け入れさせることはできなかったであろう。さらに、鳩の姿の内に見られた聖霊の諸々の痕跡は、キリスト者の内に保たれている。なぜならキリスト者たちは、諸々の悪霊を追い払い、多くの癒しを成し遂げ、ロゴスのみ旨に従って未来に関する事柄の何がしかを見ているからである。たとえケルソスが、あるいは、彼の持ち出すユダヤ人殿が、私がこれから言うことを嘲笑しようとも、次のように言いたい。多くの人たちがいわば不本意にキリストに近づいており、何らかの霊が彼らの主導能力を突然動かして、み言葉を憎むことから、み言葉のために死ぬことへと転向させ、彼らに幻や夢を表していると。我々は、それらの多くの実例を知っている。もしも我々が、それらの現場に居合わせ目撃しているとしても、それらのことを書き記すなら、我々は、不信仰の人たちから大きな嘲笑を買うことだろう。なぜなら彼らは、彼らがそれらのこととを捏造していると見なしている人たちと同様に、我々自身もそれらをでっち上げていると思っているからである。しかしながら神は、我々の――偽りの物語によってではなく、幾つかの多様な証拠によってイエスの神的な教えを確かなものにしようとする――良心の証人である。

しかし聖霊が鳩の姿においてイエスに降ってきたと書き記されていることについて疑っているのはユダヤ人であるから、彼に対して次のように言わなければならない。ユダヤ人殿、『イザヤ書』において「そして今、主は、私と、ご自分の霊とを遣わされた[1]」と言っているのは誰であるか。この表現は曖昧である。おん父と聖霊がイエスを派遣したのか。それとも、おん父がキリストと聖霊を派遣したのが。後者が真実である[2]。そして預言者によって言われたことが成就するために、救い主が遣わされてから聖霊が遣わされたのである。また預言の成就が後の人びとにも知られる必要があった。それでイエスの弟子たちは、起こったことを書き記したのである。



[1] Is.48,16.

[2] オリゲネスは前者の解釈を、『ヨハネによる福音注解』2,11(GCS 4,66,4-6)で支持している。また、『マタイによる福音注解』13,18(GCS 10,228,1-18)では、後者を支持している。

 

次へ