54 しかし聖書についてすべて知っていると公言するケルソスは、救い主がご受難に際して、おん父によって助けられることもなければ、自分自身をも助けることができなかったとして非難しているのであるから、彼の受難は次の理由で預言されていたと主張しなければならない。すなわち、彼が人々のために死に、断罪に基づいて鞭打たれることは、人々の益になるということである。また預言者たちがいなかった諸国の民の出身者たちも救い主に気づくことになると預言されており、彼が人々の間で哀れな姿を持って現れるのが目撃されると言われているのである。聖書の言葉は次のようになっている[1]

 

「見よ、私の僕は、知識を持ち、たたえられ、栄光を受け、大いに高く上げられる。多くの人があなたに唖然とするほど、あなたの姿は人々の間で見栄えを失い、あなたの栄光は人々の間から消えうせる。同じように諸国の多くの民はあなたに驚き、王たちは自分たちの口をつぐむ。なぜなら諸国の多くの民は、彼について知らせを受けていなかったのに彼を見、(彼について話を)聴いていなかったのに彼を知ることになるからだ。主よ、誰が私たちの聞いたことを信じただろうか。そして主のみ腕は、誰に明らかにされただろうか。私たちは彼を、主の前に立つ僕、乾き切った地の中の根としてつげ知らせた。彼には美しい姿も栄えもない。そして私たちは、彼を見た。彼には、美しい姿も美しさもなかった。かえって彼の姿は、すべての人に勝って不名誉であり、蔑まされていた。彼は、災難の内にある人であり、弱さを耐えるすべを知っていた。なぜなら彼は、自分の顔を背け、恥を受け、軽蔑されていたからだ。彼は私たちの諸々の罪を担い、私たちのために苦しみを耐えている。私たちは、彼が労苦と痛みと虐待の内にあると思った。しかし彼は、私たちの諸々の罪のために傷つきられたのだ。私たちの諸々の不法のゆえに病を受けたのである。私たちの平和のための懲らしめが彼に臨み、彼の鞭打ちによって私たちは癒された。私たちは皆、羊のように迷い、人はその道に迷った。そして主は、彼を私たちの諸々の罪に委ねた。彼は、虐待されても自分の口を開かなかった。<屠り場に引かれる羊のように、毛を刈る者の前に物言わぬ子羊のように、彼は自分の口を開かなかった[2]>。彼の卑しめの内に彼の裁きは掲げられた。誰が彼の生まれを語るだろうか。なぜなら彼の命は、地から取り去られ、私の民の諸々の不法のゆえに死に導かれたからだ」。



[1] Is.52,13-53,8.以下、聖書からの引用。

[2] 推定的復元。

 

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