60 ギリシア人たちに対しては、こう言うことにしよう。すなわち魔術師たちは、鬼神どもと通交し、自分たちが既に知っていることや、望むことについて彼らを呼び出して(真意を尋ねて)いる。ただし、そえらの鬼神やそれらの鬼神を呼び出す呪文に勝るより神的で、より強力なものが何も顕現しない場合や、語られない場合にだけ、彼らはそのようにするのである。しかしより神的な何かの顕現が現れるなら、鬼神どもの諸々の働きは無効にされて、神性の光に直接対峙することができない。したがって当然、イエスの誕生に際しても、ルカが書き記し、またこの私も確信しているように、「天の大軍」が神をたたえ、「天のいと高きところには神に栄光。地には平和、人々には善意」と言ったとき、それによって鬼神どもは力をまったく失って弱り果て、彼らの魔術は面目を失い、その働きは粉砕されてしまった。それらは、イエスの誕生のゆえに天使たちが地上に降りきたったことによるばかりでなく、イエスの魂およびイエスの内にある神性によって無効にされてしまったのである。そこで魔術師たちは、いつものやり方を実践しようと望んだが、彼らが以前に何らかの呪文と奇術によって行っていたことを果たすことができず、その原因を探し求め、その原因が重大であることを察知した。そして彼らは、天に現れた神からのしるしを見て、そのしるしから意味されていることを知ろうと願った。そこで私が思うに、彼らは、モーセも書き記しているバラムの諸々の預言を知っていて――モーセもこのような事柄の達人であった――、彼らはそこに、星について、まさに次の言葉を見出したのである。「私は彼に示そう。しかしいまではない。私は(彼を)祝福する。しかし彼は近くにいない[1]」と。こうして彼らは、星とともに預言されている人が既にこの世に訪れたことを推測し、しかもその人がすべての鬼神やいつも彼らのもとに現れては何らかの働きをしていた存在者たちよりも優っているとあらかじめ判断し、彼を伏し拝もうと望んだのである。そこで彼らは、ある王が(ユダヤに)生まれたことを確信し、ユダヤに来た。しかし彼らは、その王がどのような国を治めるのか知らず、どこに生まれるかだけを知っていた。彼らは、贈り物を携えてきて、こう言ってよければ、神と死すべき人間とのある種の複合体に[2]これを捧げたのである。これらの贈り物は、王に対しては黄金、死すべきものに対しては没薬、神に対しては芳香という象徴であった[3]。そして彼らは、彼の誕生の場所を知って、これらの贈り物を捧げた。しかし人々を助ける天使たちを超えた人類の救い主は、神であったから、み使いは、イエスを伏し拝みにきた魔術師たちの信心に報い、ヘロデの許へ行かないように警告し、かえって別の道を通って自分の国に帰るように告げた。



[1] Nb.24,17; cf.Hom.Nb.13,7: Si enim prophetiae eius a Moyse sacris insertae sunt voluminibus, quanto magis descriptae sunt ab his, qui habitabant tunc Mesopotamiam, apurd quos magnificus habebatur Balaam quosque artis eius constat fuisse dsicipulos? … Haec scripta habebant magi apud semet ipsos et ideo, quando natus est Jesus, agnoverunt stellama et intellexerunt adimpleri prophetam. Et cf. Ambr.,Expos.in Lc.2,48; Eus.Qu.Ev.,281,18.

[2] sunqe,tw| tini. evk qeou/ kai. Avnqrw,pou qnhtou/

[3] Cf.Irenaeus, Adv.haer.3,9,2; Clem.Al.Paed.2,63,5.

 

次へ