67 次にケルソスの著作のユダヤ人は、自分が学問好きのギリシア人で、ギリシア人たちの教養を身につけた人物であるかのように次のように言っている。太古から伝わる諸々の神話は、ペルセウスやアンフィオン、アイアコス、ミノスに神的な出生を与え――我々はそれらの神話を信じていないが――、それらが不信に思われることのないように、本当に人間を超える偉大で驚くべき彼らの諸々の業を提示している。ところがあなたは、業や言葉によって一体どのような見事な、あるいは驚くべき業を行ったのか。あなたは、ご自身が神の子であることの何かしら明瞭なしるしを示すように神殿で求められたにもかかわらず、我々に何も示していないと[1]。これに対して、次のように言うべきである。ギリシア人たちは、上に枚挙されたものたちのいずれかが行ったという人生に有益で輝かしく、後の世代にも影響を及ぼす偉大な業、しかもそれらの神的な出生を物語る神話に信憑性をもたらす偉大な業を我々に示すべきである。しかしギリシア人たちは、自分たちが書き上げた人物たちについて、イエスが提示した諸々の事柄に及ぶものをまったく示さないだろう。ただしギリシア人たちが、我々がそれらの神話を非理性的に信用し、後者の(イエスの行った)諸々の事柄を著しく明瞭であるにもかかわらず信用しなくなるように願って、我々を諸々の神話とそれらの物語とに導くのでなければ。我々は、次のように主張する。すなわち人間の全居住地にイエスの業が及んでおり、そこにはイエスによって無数の悪徳から転向した人たちからなる神の諸教会が広まっているのである。さらにイエスの名は、悪霊どもや諸々の病気は言うまでもなく、人々の諸々の乱心を取り除き、柔和な物腰、節度、人類愛、思いやり、温厚さを、生活や何らかの人間的な必要のために偽ってキリストの教えを受け入れた人々のうちにではなく[2]、神とキリストと来るべき裁きに関する教えを正真正銘に受け入れた人々の中にもたらしているのである。



[1] Jn.10,23-24.

[2] Cf.Lucianus, De Morte Peregrini,12s.

 

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