オリゲネス  

真の言葉と題されたケルソスの著作への反論

第二巻

朱門岩夫訳

最終更新日2018/12/22    


 

 真理の言葉と題されたケルソスの著作に対する我々による反論の第一巻において、我々は、イエスに対するユダヤ人の作り話に対して十分な議論をして筆を擱いたが、我々は、この巻の作成においては、ユダヤ民族の中からイエスを信じるに至った人たちにケルソスが向けた非難に対して弁明するつもりである。先ず次の点に我々は、注目することにする。一体なぜケルソスは、一度作り話をすると決めるや、異邦人の中から信じるに至った人たちに対してではなく、ユダヤ人の中から信じるに至った人たちに対してユダヤ人の登場を願って反論させているのか。我々に対して彼が書いた反論なら、その反論は極めてもっともらしく見えただろう。しかしすべてを知っていると公言するこの男は、作り話の論題として何が適切かを知らないのである。

 では彼が、ユダヤ人の中から信じるに至った人々に対して何と言っているかが考察されねばならない。彼はこんなことを言っている。彼らは、イエスにそそのかされて父祖伝来の律法を捨て、まったく滑稽な仕方でだまされ、別の名前と別の生活に転進したと。しかし彼は、ユダヤ人の中からイエスを信じるに至った人々が父祖伝来の律法を捨てていないことに気づいていない。実際、彼らは、律法に従って生活しており、律法の解釈に基づく貧困にあやかった名を頂いている。すなわち貧者は、ユダヤ人の間ではエビオンと呼ばれるが、ユダヤ人の中からイエスをキリスト(すなわちメシア)として受け入れるに至った人々は、エビオン派と言われているのである[1]。ペトロも、文字に従った律法から霊に従った律法に昇ることをイエスから学ぶまで、長い間、モーセの律法に即したユダヤの風習を守っていたように見える。実際、我々は、『使徒言行録』からそのことを知っている。「神のみ使いがコルネリオスに現れて、彼をヨッペにいるペトロと呼ばれるシモンの許に行くように命じた日の翌日のこと、ペトロは祈るために第六時の頃に高間に上った。そして空腹を覚え何かを食べたくなった。しかし人々が(食事の)準備をしている間に、脱魂状態がペトロに臨み、彼は、天が開け、大きな亜麻布のような器が四隅を吊るされて地面に降りてくるのを見た。その中には地上のあらゆる四足動物や這うもの、および空の翼あるものがいた。そして、さあペトロ、立って、屠り、食べよという声が彼にした。しかしペトロは言った。主よ、とんでもございません。私はこれまで一度も、清くないものや穢れたものを食べたことがありませんと。すると再び声がして彼に言った。神が清めたものを、あなたは清くないものにしてはならない[2]」とある。実にあなたは、これらの言葉の内に、ペトロが清いものと清くないものについてのユダヤの風習を依然として守っていたことがどのようにして示されているかお考えください。またこれに続く個所から、ペトロが信仰の諸々の教えを、肉によればユダヤ人ではないコルネリオスや彼と共にいる人たちと分かち合うためには幻視が必要であったということが明らかになる。なぜならペトロは、依然としてユダヤ人で、ユダヤの諸々の伝承に従って生活し、ユダヤ教の外にいる人たちを軽蔑していたからである。パウロも、『ガラテヤの人たちへの手紙』の中で次のことを明らかにしている。すなわちペトロは、まだユダヤ人たちを恐れて、異邦人たちと共に食事をすることを止めた。そしてヤコブが彼のところに来たとき、彼は、異邦人たちから離れたと。そして他のユダヤ人たちも、バルナバも、ペトロと同じことをしたのである[3]

 しかし割礼を受けた人のところに遣わされた人たちがユダヤ人の風習を離れないのは当然であった。なぜならそのとき、「柱と目されていた人々は、パウロとバルナバに交わりの右手を置いて[4]」、割礼を受けた人たちのところへ向かい、パウロとバルナバは異邦人に(福音を)宣べ伝えることになったからである。しかしなぜ私は、割礼を受けた人たちに(福音を)宣べ伝える人たちが異邦人から退き離れたというのか。それは、まさにパウロ自身が、ユダヤ人を得るために、「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように[5]」なったからである。それゆえ『使徒言行録』にも書かれているように、パウロは、自分が律法の裏切り者ではないことをユダヤ人に納得させるために、祭壇に奉げ物をすることさえしたのである[6]。とにかくケルソスがこのへんのことをすべて知っていたら、ユダヤ人を登場させて、ユダヤ教から離れて(キリストを)信じるに至った人々に対して、次のように言わせることはなかっただろう。すなわち、何と不幸なことか、同郷人たちよ。あなた方は、父祖伝来の律法を捨てて、我々がたったいま討論していたあの男にまったく滑稽な仕方で唆され欺かれ[7]、我々を捨てて、別の名前と別の生活に移って行ったのだと。



[1] 後ほどオリゲネスはエビオン派には二つの分派があることを指摘する。一つは、イエスの処女懐胎を認めるが、他方が認めていない(V,61)。しかしいずれのはもパウロ書簡を斥けている(V,65)Cf.De Princ.4,3,8; Com.Mt.11,12; 16,12; Hom.Jr.19,12; Irenaeus,Adv Haer.1,62,2.

[2] Ac.10,9-15.

[3] Cf.Ga.2,12.

[4] Ga.2,9.

[5] 1Co.9,20.

[6] Ac.21,26.

[7] 誘惑者としてのイエスについては、Mt.27,63; Jn.7,12; Justinus, Dial.69,7.