11 次に、彼は、自分が弟子たちと名づけた人たちによって裏切られたことを、ケルソスの許のユダヤ人は、諸々の福音から学んだ――そのとき彼は、非難が増すように見せるために、一人のユダを多くの弟子たちと言うことによって。しかし彼は、ユダに関して書き記されたすべての事柄をあまり吟味しなかった:すなわち、ユダは、師に関して(相互に)戦い合う対立する諸々の判断に陥ったのであり、魂全体において彼に反対していたわけでもなく、師に対して弟子としての敬意を魂全体において抱いていたわけでもなかった。なぜなら、「彼を裏切った者は、イエスを捕まえるために来た群衆に、次のように言って印を与えたからである:『私が接吻する人が、彼である。あなた方は、彼を取り押さえなさい』と[1]」。彼は、彼に対して敬意の幾ばくかを保持していた。実際、もしも彼がそれを保持していなかったなら、彼は接吻の見かけなしに、憚りなく彼を裏切っただろう。このことは、すべての人たちに、ユダの選択的意志に関して次のことを信じさせないだろうか:金銭欲とともに、そして、師を裏切ることに向かった邪悪な選択的意志とともに、魂の中で、イエスの諸々の言葉によってない交ぜにされた何ものかが生じ、それを持っており、こう呼んで善ければ、慈しみの残滓の現れを持っていたこと。実際、次のことが書かれている:「彼を裏切ったユダヤは、彼が断罪されたのを見て後悔し、三十個の銀貨を大祭司たちと長老たちに返し、言った:『私は正しい血を裏切って罪を犯した』。しかし彼らは、『我々と何の関係があるのか。あなたが見るだろう』と言った。そして彼は、諸々の銀貨を神殿の中に投げ込んで去り、立ち去って首を吊った[2]」。しかし、もしもユダが、金銭欲があり、貧しい人たちのために『賽銭箱』の中に投げられた諸々の(銀貨)を盗んだにも関わらず、「後悔して、三十個の銀貨を大祭司たちと長老たちに返した」とすれば、イエスの諸々の教えが彼の中に何らかの後悔――裏切り者によって完全に蔑ろにされ唾棄されたものではない後悔――をもたらすことができたことは、明らかである。そればかりか、「私は正しい血を裏切って罪を犯した」という言葉は、犯された罪を告白した者の言葉だった。しかしあなたは、犯された諸々の罪に対する後悔からどれほど激烈な悲しみが彼に激しく生じたかを見るべきである――その(悲しみの)程度たるや、彼は生きることをにもはや耐えられず、「神殿の中に銀貨を投げ込んで去り、立ち去って首を吊ったほどである。実に彼は、自分自身を断罪することによって次のことを示した:すなわちイエスの教えは、罪人であり盗人であり裏切り者であるユダ――彼は、イエスから学んだ諸々の事柄を完全には蔑ろにできなかった――の中で、どれほど大きなことができたかを。それとも、実に師に対して(ユダによって)敢行された諸々の事柄の後において、ユダの不完全な離反を明示する諸々の事柄は諸々の作り話であると、ケルソスを取り巻く人たちは言うだろうか――唯一の真実は、弟子たちの一人が彼を裏切ったことであるとして。そして彼らは、起こった事柄に加えて、「彼が魂全体において彼を裏切った」ということを付け加えるだろうか。説得力のないことは、諸々の文字それ自体から、一切を敵対的なことにしたてることである――(それを)信じるにせよ、信じないにせよ。
しかしさらに、ユダに関して(彼を)恥じ入らせる何らかの言葉を引用すべであるとすれば、諸々の詩歌の書の中の第百八番の詩歌全体がユダに関する預言を含んでいると、我々は言うだろう。その始めは次の通り:「神よ、私の賛美を無視しないで下さい。なぜなら、罪人の口と嘘つきの口が私に対して開かれたからです[3]」。その(詩歌の)中で、実に次のことが預言されている:すなわちユダが、罪の故に自分自身を使徒たちの数から切り離し、彼の代わりに別の人が探し出された。そしてそのことは、「他の者が彼の監督職をとった[4]」ことの中に明示されている。しかしながら彼は、弟子たちの中のユダよりも邪悪な誰か――イエスから聞いたすべての諸々の言葉を表明し、いわば注ぎ出した誰か――によって裏切られたと、あなたはして下さい。どうしてそのことが、イエスやキリスト教の非難に資するだろうか。そして、どうしてそのことが、み言葉の虚偽を証明するのか。しかし、続く諸々の事柄に関しては、我々は、以上の諸々の事柄に先立つ諸々の個所の中で弁明した[5]――イエスは逃亡して捕らえられたのではなく、我々すべてのために自発的に、自分自身を渡したということを、我々が示すことによって。そのことからの帰結として、次のことがある:すなわち、たとえ彼が渡されたとしても、彼は自発的に渡された――(その際)彼は、我々が意に反してではなく、敬神のためにそれらの事柄を受け入れることを教えつつ。