24 それらの事柄に続いて彼は、彼に起こった諸々の事柄が苦痛であり悲痛であったこと、そして、彼が望んだ限りは、それらの事柄をそのようにせしめないことができなかったことを示そうとして、次のように言う:「いったいなぜ彼は、叫び声を上げ、嘆き、破滅の恐れを回避することを祈り、次のように言うのか:『父よ、もしもこの盃が過ぎ去ることができますならば[1]』」と。そしてあなたは、それらの言葉の中に、ケルソスの狡猾さを見るべきである:すなわち彼は、諸々の福音を書いた人たちの誠実さを受け入れず――彼らは、ケルソスが考えているような諸々の非難の種を言外に付すことができたのに、福音を解釈する人が適時の中で出す多くの言葉の故に黙らなかった――福音の言い回しを悲劇化し、記載されていない諸々の事柄を置いて、(その言い回しを)非難する。実際、イエスが嘆く様子は見いだされない。そして彼は、「父よ、もしも可能なら、この盃が過ぎ去りますように[2]」という言葉を敷衍している。そして彼は、父に対する彼の敬神と、それに続いて記載された寛大さ――「しかし、私が望むようにではなく、あなたが(望むように)[3]」という内容の寛大さ――とを直ちに表明する言葉を、もはや引用しない。そればかりか、彼が被るべきだと判断された諸々の事柄に関する父の意思に対するイエスの従順――「私がそれを飲まないように、それが過ぎ去ることができないなら、あなたの意思が成りますように[4]」という言葉の中に明らかにされている従順――を(ケルソスは)読まなかった振りをし、諸々の神的な文書を狡猾に理解して「お上に不義[5]」を語る不敬虔な人たちと何かしら同じようなことをする。実際それらの(不敬虔な)者たちは、「私は殺すだろう」という言葉を聞いたように見え、そして、しばしば我々をそのことで非難するが、彼らは、「私は生かすだろう[6]」という言葉を思い出すことさえしない。その言葉全体は次のことを明示している:すなわち、共通の悪に基づいて生活し、悪徳に従って働く人たちは、神から殺害されるが、それに代えてより優れた生活――しかもその生活は、「罪に死んだ者たちに[7]」神が与えることができるだろう――が彼らにもたらされと。同様に彼らは、「私は打つ」という言葉を聞いたが、「そして私は癒すだろう[8]」という言葉をもはや見ない。それは、医者によって言れる事柄に何かしら似ている:すなわち彼は、身体を切り開き、諸々の傷を痛いものにすることによって、健康に有害で妨げとなる諸々のものを取り除くが、切除と諸々の苦痛に終わらず、治療にとって身体を所期の健康に回復させる。そればかりか彼らは、「実に彼は、痛がらせ、そして再び回復させる」という言葉全体を聞かず、「痛がらせる[9]」という言葉だけを聞いた。したがって同じように、ケルソスの許のユダヤ人も、「父よ、もしもこの盃が過ぎ去ることができますならば[10]」という言葉を引用したが、受難に向けたイエスの準備と決意を示す次の諸々の言葉をもはや引用しなかった。そして、それらの言葉は、パウロが次のように言って名づけた「完全な人たち」に理に適って渡されるべき多くの解釈を神の知恵から得ている:「しかし私たちは、完全な人たちの中で知恵を語ります[11]」が、差し当たりそれを別の機会に譲っり、目下の事柄に有益な諸々の事柄を少しばかり思い起こす。



[1] Mt.26,39.

[2] Mt.26,39.

[3] Mt.26,39.

[4] Mt.26,42.

[5] Cf.Ps.72,8.

[6] Dt.32,39.

[7] Cf.PRm.6,2.

[8] Dt.32,39.

[9] Jb.5,18.

[10] Mt.26,39.

[11] 1Co.2,6.

 

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