31 それらの次に(ケルソスは)、「キリスト者たちが神の子はロゴスそのものであると言うことの中で詭弁を弄している[1]」として非難する。そして彼は、次のように言ってその非難を強めると思っている:「我々は、ロゴスが神の子であると告げるとき、清く聖なるロゴスでなく、極めて屈辱的に連れ去られ殴打された人間を提示する」と。しかし、それについても、上の諸々の箇所に中で、いわば要約の中で、ケルソスの諸々の非難に対して(我々の反論は)言われている。それらの(箇所の)中で次のことが提示されている:すなわち、「一切の被造物の長子」は、身体と人間的魂を取ったこと、そして神は、世界の中にあるこれほど多くの諸々の物について命令し、それらが創造されたこと、そして、その命令を受けた方は、ロゴスなる神であったこと。そして、ケルソスの許でそれらのことを語っているものはユダヤ人であるから、我々が次の言葉を使うのは場違いではないだろう:「(主は)ご自分のロゴスを送り出し、彼らを癒した。そして、彼らの諸々の腐敗から彼らを引き出した[2]」と。我々は、上の箇所でも、その言葉に言及した[3]。また、この私は、知者であると約束する多くのユダヤ人たちに出会ったとき、彼らの誰一人として、ケルソス(の許のユダヤ人)が言ったように、ロゴスは神の子であることを是認していると話すのを聞いたことがない。ケルソスは、そのことをユダヤ人の位格に結び付けて、次のように言わせている:「もしもロゴスがあなた方にとって神の子であるというなら、我々もまた(それを)是認する」と。



[1] 省略

[2] Ps.106,20.

[3] C.Cels.,I,64.

 

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