34 ケルソスの許のユダヤ人は、イエスをからかっているつもりでいるが、エウリピデスのバッカスを知っていると(ケルソスによって)書かれている。(バッカス)は言う:「鬼神自身は、私が望むとき、私を解放するだろう[1]」と。だが、ユダヤ人たちは、ギリシア人たちの諸々の(文学的)事柄をまったく好まない。しかし、ユダヤ人たちの中に、そのように(文学)愛好者になった人がいるとしよう。そうすると、イエスは、拘束された自分自身を解放しなかったのだから、どうして彼は(他の人を)解放できなかったのか。とにかく彼は、私の諸々の()文書から次のことを信じるべきである:すなわち、監獄の中で拘束されていたペトロも、み使いが諸々の束縛を解いたとき、(そこから)出ていったこと[2];そしてパウロも、シラスとともに、マケドニアのフィリピで、「木(の足枷)」によって拘束されていたが、監獄の「諸々扉が開かれた」とき、神的な力によって解放されたことを[3]。しかし当然のことながら、ケルソスは、それらの事柄を嘲笑するだろう。あるいは、そもそも彼は、その物語を決して読まなかったのだろう。さもなければ彼はその物語に対して、ある魔術師たちも、諸々の呪文によって、諸々の束縛を解き、諸々の扉を開くと言うことに決めただろう――魔術師たちの諸々の事柄を我々の許で物語られている諸々の事柄に共通化させるために。

「しかし、彼を断罪した者自身は、狂気に駆られたり、ずたずたに引き裂かれたペンテウスが被ったような苦しみを受けななかった」と、彼は言う。しかし彼は、そのようになったのは、彼を断罪したピラトではなく――「彼は、ユダヤ人たちが妬みによって彼を渡したことを知っていた[4]」――ユダヤ人たちの種族だったことを知らなかった。この種族は、神によって断罪されて、ずたずたに引き裂かれた。そして、ずたずたに引き裂かれたペンテウスを超えて、一切の土地の中へと撒き散らされた。また、何故に彼は、意図的にピラトの夫人に関する諸々の事柄を脇に置いたのか。彼女は夢を見たが、それによって動かされ、夫に(使いを)遣わして言った:「あなたと、この正しい人間とに何もありませんように。なぜなら今日、私は夢で、彼によって多くの事柄を苦しんだからです[5]」と。

またしても、このケルソスはイエスの神性を表す諸々の事柄に沈黙し、福音の中でイエスについて書かれている諸々の事柄から(イエスを)中傷する――次の言葉を引用しつつ:「彼らは彼を嘲り、真紅の衣と諸々のいばらできた冠と手の中の葦(の茎)を身に着けさせた[6]」。したがってケルソスよ、あなたはどこから、それらの事柄を学んだのか、福音からではないのか。一体あなたは、中傷に値するそれらの事柄を見たのか。それらの事柄を書き記した人たちは、次のことに気付いていなかったのか:あなたやあなたに似た人たちが嘲笑すること、しかし他方で、他の人たちが、敬神のために自発的に死んだ人を、敬神の故に笑い嘲笑する人たちを見下すことの模範を見なすだろうということ。したがってむしろ、あなたは、彼ら(聖書記者たち)の誠実さと、人間たちのためにそれらの事柄を自発的に被り、全き寛容と寛大さをもってそれらを耐え忍んだ方の高貴さに驚嘆すべきです。実際、彼が悲嘆したとか何か卑賤なことを考えたり声高に叫んだとかは書き記されていない。



[1] 省略

[2] Cf.Ac.12,6-9.

[3] Cf.Ac.16,19-26.

[4] Mt.27,18.

[5] Mt.27,19.

[6] Mt.27,28-29.

 

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