37 それらの後で(ケルソスは)、福音から(彼自身が)非難することを目論んでいる諸々の表現を引き出して、イエス――普通の人間ならしばしば耐えるような渇望に耐えられず、「酸い葡萄酒と胆汁」を飲むことへと貪欲に駆り立てられたイエス――を非難する。そしてこれは、特殊な象徴的解釈を受ける。しかし今のところ、言われた事柄は、次のような一般的な回答を、問われた諸々の事柄に対して得るだろ:すなわち、そのことについても、預言者たちは預言していたと。実際、『詩編』第六十八番の中で、イエスの位格から次のことが書かれている:「彼らは、私の食べ物のために胆汁を与え、私の渇望のために酸い葡萄酒を私の飲ませた[1]」と。とにかく、ユダヤ人たちは、預言の中でそれらのことを言う者が誰であるかを言うべきである。そして彼らは歴史から、自分自身の食べ物のために胆汁を摂取し、酸い葡萄酒を飲んだ方が誰であるかを証明すべきである。あるいは彼らは、やがて到来するであろうと思っているキリストが、それらの事柄の中で問題になっていると敢えて言うべきだとしても、預言された事柄がすでに起こったことを、いったい何が妨げるのかと、我々は言いたい。まさにそのことがはるか前の諸々の時から言われていたが、他の諸々の預言的な予知と相まって、すべての諸々の事柄を慎重に吟味する人にとって、イエスが預言されたキリストであり、神の子であると同意するのに十分である。



[1] Ps.68,22.

 

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