42 さらに、ケルソスは、「イエスが非の打ちどころがないわけではなかった」ことを望んでいるのであるから、彼の教えに満足する人たちの誰がイエスの真実に非に値する事柄を書き記したかを提示すべきである。あるいは、そのような人たち(の記述)から彼を非難すべきものとして非難するのでなくとも、彼はどこから学んで、彼が非の打ちどころのない人間でないと言ったのかを示すべきである。とにかくイエスは、彼が約束した諸々の事柄を信ずべきものにした。それらの事柄を通して彼は、彼に専心する人たちを益した。そして、彼によって起こる前に言われた諸々の事柄――福音が世界全体の中で宣べ伝えられたこと[1]、そして、彼の弟子たちが「すべての諸国民の中へ」歩み、彼のみ言葉を告げたこと[2]、さらに、彼の教え以外の如何なる原因によっても「指導者たちと王たちの傍らに」連行されることはないだろうということ[3]――が成就されるのを常に見ることによって、我々は驚嘆し、彼への信仰を日毎に強める。しかし、ケルソスがどのような諸々のより大きく明瞭な事柄から、イエスが予め言った諸々の事柄を信ずべきものにしたと望んだのか、私は知らない――見たところケルソスが、み言葉が人間イエスになったことを知らなかったので、彼が人間的な事柄を何一つ苦しまず、諸々の出来事を耐えることに関して高貴な模範にもならなかったことを望んでいるのでないとすれば。しかし、おそらくケルソスには、それらの出来事が極めて極めて嘆かわしく極めて非難すべき事柄であったように思われるかもしれない。なぜなら彼は、苦痛が諸々の悪の中で最大のものであり、快楽が完全な善であると見ているからである。ところが、まさにそのことを、摂理を導入し、勇気と忍耐と寛大さが徳であることに同意する哲学者たちの誰一人として受け入れなかった。とにかくイエスは、彼が絶えた諸々の事柄を通して、自分への信仰を損ねなかった。むしろ、勇気を受け入れることを望んだ人たちと、彼から次のことを教えられた人たちの中で(自分への信仰を)強めた:すなわち(何を教えられたかというと)、厳密で真実の意味で至福を生きることは、こちらにあるのでなく、彼の諸々の言葉に即して呼ばれる「来るべき代[4]」の中にあり、他方、この代の中で言われる生活は災難、あるいは、魂の第一かつ最大の戦いである、と。



[1] Mc.13,10.

[2] Mt.28,19.

[3] Mt.10,18.

[4] Mt.12,32.

 

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