48 しばしばケルソスは、イエスが行ったと記載されている諸々の力を直視することができず、それらを諸々の魔術として中傷する[1]。そしてしばしば我々は、我々に可能な限りで、その言葉に反論している。そして、今も彼は、我々が「彼が足の不自由な人たちを目の見えない人たちを癒したが故に、我々は彼を神の子であると見なしている」と答えているかのように言っている。さらに彼は、「あなた方が言っているように、彼は死者たちを復活させた」という言葉まで付け加える。もちろん、彼が足の不自由な人たちと目の見えない人たちを癒したが故に、我々は彼がキリストであり神の子であると見なしているということは、諸々の預言の中にも(それらが)書かれていることから我々に明らかである:「その時、目の見えない人たちの諸々の目が開かれ、耳の聞こえない人たちの諸々の耳が聞けるようになるだろう。その時、足の不自由な人は、鹿のように飛び跳ねるだろう[2]」と。また、彼が死者たちを復活させたこと、そしてそれが、諸々の福音を書いた人たちの捏造でないことは、次のことから証明される:すなわち、もしも(復活が)捏造だったなら、大勢の復活者たちと、諸々の墓碑の中でのもっと多くの諸々の時間が記載されただろうが、(それは)捏造ではないので、まったく容易に数えられる(僅かな)人たち(の復活)が語られている(ことから証明される)(先ず)会堂長の娘――彼女について、どうしてだか私は知らないが、(イエスは)「彼女は死んだのでなく、眠っている[3]」と言って、彼女について、すべての死者たちに何かしら付随しないことを言っていた――(の復活が語られている)(次に)未亡人の一人息子――彼について(イエスは)腸を痛めて、死者を運ぶ者たちを止めて、彼を復活させた――(の復活が語られている);第三に、墓碑の中にいた四日目のラザロ(の復活が語られている)[4]

そして我々は、それらの事柄について、もっと良識のある人たちに、特にユダヤ人に次のことを言うだろう:「多くのライ病人たちが預言者エリシャの諸々の日の中にいた。そして、彼らの内の誰一人として清められな語った――シリア人ナアマンの他は[5]」。「そして、預言者エリアの諸々の日の中に、多くの未亡人たちがいた。そして、彼女らの誰一人の未亡人の許にも、エリアは派遣されなかった――シドンのサレプタの中(の未亡人)にだけ遣わされた[6]」と。なぜなら彼女は、何らかの神的判断に従って預言者によって諸々のパンの中で起こった驚くべき事柄に相応しい者になっていたからである[7]。同様に、イエスの諸々の日の中に多くの死者がいた。しかし、み言葉が復活に相応しいと見抜いた者たちだけが復活した。それは、主によって起こった諸々の事柄が何らかの諸々の事柄の象徴になるためばかりでなく、それらが直ちに、福音の教えの驚きへと多くの人たちを導くためである。また私は、次のことを言いたい:すなわち、イエスの福音の教えによれば[8]、弟子たちは、イエスが行った諸々の感覚的な事柄以上に偉大な諸々の事柄を行ったと。実際いつものこととして、目の見えない人たちの諸々の目が魂において開かれ、徳の諸々の言葉に対して聞く耳を持たなかった人たちの諸々の耳が、神と、神の許での至福な生活とについて熱心に聞き、()文書が「内なる人間」と名付けた人の諸々の歩みにおいて脚萎えとなされた多くの人たちが、今やみ言葉が彼らを癒したことによって、単純に飛び跳ねるばかりでなく、「鹿――諸々の蛇の敵対的な生き物であり、鎖蛇たちの一切の毒よりも強力な生き物――のように[9]」飛び跳ねている。しかも、癒された脚萎えたちは、イエスから、以前は利かなかった諸々の足で、邪悪の「蛇たちと蠍たち」の上で、要するに「敵の一切の権能の上で」、(諸々の足を)踏み鳴らす権威を得ており、踏みつけても害されることはない[10]。なぜなら彼らも、一切の悪徳と悪霊たちの毒とに勝る者たちになっていたからである。



[1] Cf.C.Celsum.,I,6,68; II,32.

[2] Is.35,5-6.

[3] Lc.8,52.

[4] Cf.Lc.7,11-17; Jn.11,38-44.

[5] Lc.4,27.

[6] Lc.4,25-26.

[7] Cf.1R.17,11-16.

[8] Cf.Jn.14,12.

[9] Is.35,6.

[10] Lc.0,19.

 

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