54 それらの事柄の後で、ケルソスのユダヤ人は――そのユダヤ人によって始めから提示された事柄を私が守るとして――おそらく私たちに向けて、(み言葉を)信じた自分の同郷人たちへの言葉の中で次のことを言う:「一体あなた方は、彼が死んでも復活するだろうと予め言ったこと以外の何によって導かれたのか」と。そのことも、前出の諸々の事柄と同じように、モーセに関する事柄に共通化されるだろう。すなわち、我々は次のことを言うだろう:「一体あなた方は、彼が自分自身の終末について次のように書いたこと以外の何によって導かれたのか」と。すなわち、「そして、主の僕モーセは、主の言葉を通してモアブの土地の中にあるそこで最期を迎えた。そして(人々は)、ベト・ペオルの家の近くのモアブの土地の中に彼を葬った。そして誰もその日に至るまで、彼の埋葬地を知らない[1]」とある。実に(ケルソスの許の)そのユダヤ人は、彼が「死んでも復活するだろう」と予め言ったと中傷するのであるから、そのような諸々の事柄を言う者に対して、人は、モーセに関して同じようなことを述べて、次のことを言うだろう:すなわち、モーセも――実に『申命記』も彼のものである――次のことを書き記した:「誰もその日に至るまで、彼の埋葬地を知らない」――人間たちの種族に知られないものとして彼の埋葬地を荘厳化し褒めたたえて、と。



[1] Dt.34,5-6.

 

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