67 したがって、「彼が本当に神的な力を出現させることを望んだのなら、(彼を)侮辱した者たちと断罪した人と、要するにすべての人たちに見られるべきだった」という(ケルソスの)言葉に対して、我々は、このような論集のようなものの中で、我々に可能な限りで弁明した。確かに彼は、彼を断罪した人にも侮辱した人にも見られる必要はなかった。なぜならイエスは、断罪した人をも、侮辱した人たちをも惜しんだからである:それは、彼らが「盲目」――ソドム人たちの中にいた人たちが、ロトの許で持て成されたみ使いたちの時季に対して謀をした人たちが撃たれたような盲目――に撃たれないためだった。そしてそのことは、次の諸々の言葉を通して明らかにされている:「男たちは諸々の手を広げて、ロトをを家の中の自分たちの許に引き入れ、扉を閉めた。そして彼らは、その家の扉にいた男たちを、小さな者から大きな者まで盲目で撃った。そして彼らは、扉を探しつつ通り過ぎた[1]」。したがってイエスは、自分自身の神的な力を、それを見ることができる人たちの一人ひとりのためのものとして、(各人が)許容できる諸々の事柄を尺度に従って見ることができる人たちの一人ひとりのためのものとして出現させることを望んだ[2]。とにかく、実に彼が見られないようにしたことの理由は、彼を見ることのできない人たちの諸々の力を除いて他にはなかった。

そして、ケルソスの許で次のことが取り上げられたのは無駄だった:「実に彼はもはや人間たちの誰かを恐れていなかった。なぜなら彼は死んだと共に、あなた方が言うように神でもあるからだ。また彼は元に、このことのために、すなわち、気づかれないようにするために遣わされたのでもない」。確かに彼は、知られるためにばかりでなく、気づかれないようにするためにも遣わされた。実に彼の一切が、彼を知っている人たちにも知られていたわけではなく、彼の何某かは彼らにも気づかれていなかった。そしてかれは、「光の」諸々の扉を開いた――「闇と夜の」子らになっていたが、「昼と光の」子らになることに自分たちを捧げるようになった人たちのために[3]。そして、救い主なる主は、我々のために来たのであるが、善き医者として――義人たち(としての我々)のためでなく、諸々の罪に満ちた者たち(としての我々)のための善き医者として――来た。



[1] Gn.19,10-11.

[2] 訳文の後半はいつも通り直訳している。「(各人が)見ることができる範囲内で出現させることを望んだ」という意味である。

[3] Cf.1Th.5,5.

 

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