73 それらの事柄の後で、ケルソスのユダヤ人は、帰結しない事柄を帰結する事柄として引き出している。実際、「(イエスは)自分が苦しんだ諸々の懲らしめを通して、まさに死を軽視することを我々に教えることを望んだことに、彼が死者たちから復活してすべての人たちを光へと公然と招き、彼が何のために下って来たかを教えることは帰結しない。なぜなら彼は次のことを言うことによって、前もってすべての人たちを光に招いたからである:「さあ、疲れ果て、重荷を負わされたすべての人たち。この私があなた方を休ませてあげよう[1]」。彼が何のために下って来たかは、彼が諸々の至福の中で長々と動員した諸々の話の中に、そして、それらに続いて述べられている諸々の事柄の中に、そして、律法学者たちとファリサイ派の人たちに向けた諸々の講話の中に記載されている。また、『ヨハネによる福音』は、彼が教えた限りの諸々の事柄――諸々の言い回しの中でなく、諸々の行為の中での彼の大言を示している――を提示した。



[1] Mt.11,28.

 

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