79 次に、それらすべての事柄についての(ケルソスの許の)ユダヤ人の結語は、イエスについて次のことを言っている:「とにかく奴は、人間だった。そして彼は、真理それ自体が明らかにし、理性が証明しているような人間だった」と。しかし、一切の居住地に自分に即した敬神と教えを敢えて播種する人間が、自分の望むことを神なしで行うことができるかどうか、そして、彼の教えの流布に反対するすべての人たち――王たちと支配者たちとローマ人たちの召集された元老院と、あらゆる所で君臨する者たちと民衆たち――に勝ることができるかどうか、私は知らない。またどうして、それ自身の中に優れたものを何一つ持たない人間の本性が、それほどの多数(の人たち)を回心することができるのか。それらの多数が思慮深い人たちなら驚くべきことはない。むしろ(驚くべきは、その多数が)彼らばかりでなく、極めて没理性的な人たち、そして、諸々の情念に服する人たち、没理性の故により賢明なことへと変位するのがより困難な人たちであることである。しかし、キリストは神の力であり、父の知恵であった[1]。それだからこそ彼は、それらのことを行ったし、今でも行っている――たとえユダヤ人たちやギリシア人たち、彼の言葉を信用しな人たちが望まなくても。

それゆえ我々は、イエス・キリストの諸々の勧告に従って神を信じることを止めるつもりはなく、敬神に関して盲目な人たちを感心させることを望み続ける――たとえ、本当に盲目な人たちが、我々が盲目であるとして罵ろうとも、そして、ユダヤ人たちであれギリシア人たちであれ、自分たちに賛同する人たちを欺く人たちが、我々が人間たちを欺いているとして告発するとしても。しかし、次のための欺きは美しい:(人間たちが)放縦な人たちに代わって思慮深い人たちになるために、あるいは、思慮深さへと進歩する人たちになるために、そして、不義な人たちに代わって義人たちになるために、あるいは、義へと進歩する人たちになるために、そして、愚かな人たちに代わって賢明な人たちになること、あるいは、賢明さへと歩む人たちになるために、そして、卑怯な人たちと卑賤な人たちと臆病な人たちい変わって勇敢な人たちと忍耐強い人たちになるために、特に万物を創造した神への敬神のための諸々の戦いの中でそのことを示す人たちになるために。とにかくイエス・キリストは、一人の預言者によってでなく、すべての人たちによって予め宣べ伝えられてやって来た。実に、そのこと、つまり(一人の)預言者がイエスについて予言したということをユダヤ人的位格に課したことは、ケルソスの無学に由来している。

そして、ケルソスの許のユダヤ人はまるで自分自身の律法に即するかのように登場して、それらの事柄を述べ、自分の議論を終わらせたが、記憶に値する他の諸々の事柄を述べなかったので、私もここで、彼の論考に対して私によって口述された諸々の事柄の第二巻を終わらせよう。そして神が許して下さい、キリストの力が私の魂に宿って下さるなら、我々は、第三巻の中で、ケルソスによって続いて書かれた諸々の事柄に対して対峙してみることにしよう。



[1] Cf.1Co.1,24.

 

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