13 もしも(以上の)それらの諸々の事柄が一貫性を持っているとすれば、どうして我々は、キリスト者たちの間の諸々の分派に関しても、同様に弁明できないのだろうか。それらの分派に関してパウロは、まったく賛嘆すべき仕方で、次のように語っているように私には思われる。すなわち、「あなた方の間で確かな人たちが明瞭に現れるために、あなた方の間に分派も存在する必要があります[1]」と。実際、医術において確かな人は、多様な分派の内で訓練を受け、より多くの分派を慎重に吟味することによって秀でた分派を選ぶ人であるのと同様に、また、哲学に大いに前進した人は、より多くの事柄を知ることによって、それらに精通し、優れた言説を我が物とするのと同様に、ユダヤ教とキリスト教の数々の分派を注意深く凝視する人こそ、最も賢いキリスト者になると、私は言いたい。諸々の分派のゆえにみ言葉を中傷する人は、ソクラテスの教えを中傷する人でもあろう。なぜなら彼の学び舎から、同じ見解を抱かない人たちの多くの学派が生じたからである。そればかりかアリストテレスのゆえに、プラトンの諸々の教えを中傷する人もあろう。なぜならアリストテレスは、新機軸を出すために、プラトンの学び舎を後にしたからである。これについて、私は、これに先立つ箇所で述べた[2]。また、ケルソスは、我々とはイエスの名さえ共有しない何らかの分派を知っていたように私には思われる。おそらく彼は、「オフィス派の輩[3]」と呼ばれる人たちや「カイン派の輩[4]」と呼ばれる人たちに関する風聞、あるいは、イエスをまったく捨て去った他の同様の見解があるとすれば、それに関する風聞を得ていたことだろう。もちろんそのことは、キリスト者たちの教えが非難されるべきものだとすることに対していささかも資するものではない。



[1] 1Co.11,19.

[2] 『ケルソスへの反論』第212節をさす。

[3] VOfianoi,:.

[4] Kai?anoi,:.

 

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