15 また、「外来者たちの恐怖が、我々の成り立ちでは」ないということも、そ(の怒)れが、神が望むことによって既に長い時間にわたって止んでいるということから明白に確立している。しかし、信じる人たちの中に生じたこの生活に対する無恐怖(という安心)は止むことも(当然)あり得る――あらゆる仕方でみ言葉を中傷する人たちが再び、今までの蜂起の原因が信じる人たちの多数の中に、彼らがかつての諸々の時間と同じように、支配者たちによって攻撃されないことの中にあると見なすとき[1]。実際、我々は、み言葉から次のことを学んでいる:平和の中で脱力し、弛緩に自分たち自身を委ねないことや、世によって戦い挑まれることの中で気弱になり、キリストなるイエスにおける万物の神への愛から遠ざからないこと。したがって我々は、我々の起原の神聖さを明瞭に示すのであり、ケルソスが考えるように我々は(その神聖さ)を隠さない――最初に(キリスト教への)手ほどきを受けた人たちに、諸々の偶像とすべての諸々の神像の軽視を我々が作り入れ、それらに加えて彼らの諸々の思慮を、神の代わりに造られた諸々の物に仕えることから高めることによって、万物を創造した方に上らせるとき;なぜなら我々は、彼についての諸々の預言――それらは多い――から、そして、より理知的に聞くことのできる人たちによって伝承された諸々の福音と使徒的な諸々の声とから預言された方を明瞭に提示するからである。



[1] 省略

 

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