22 しかし道化者のケルソスは、我々についての愚弄と嘲笑のいかなる種類も捨てることなく、我々に対する言論の中で、ディオスクーロイ[1]とヘラクレスとアスクレピオスとディオニュソス――彼らは、ギリシア人たちの許で人間たちから神々になったと信じられている――の名を挙げている。そして彼は、次のことを言う:「彼らは、人間たちのために多くの高貴な事柄を示したけれども、最初は人間だったのだから、我々は、彼らを神々と見なすことを許さない。しかし我々は、イエスは死んだにもかかわらず、自分のお祭り仲間たちによって見られたと主張している[2]」と。そして(ケルソスは)さらに、彼が見られた、そのうえ(彼の)影も見られたと我々が言っているとして、我々を非難する。そしてそれらのことに対して我々は、次のことを言いたい:ケルソスは驚愕すべき仕方で、彼が彼らを神々として崇拝しないことを、驚くべき仕方で明晰に示さなかった;なぜなら彼は、彼の書を読むだろう人たちの意見――もしも彼が自分に現れた真理に属する諸々の事柄を(自分の書物の中で)前面に出したなら彼を無神論者と憶測するだろう人たちの意見――に警戒していたからである;あるいは逆に、彼らを神々と見なしてる振りをしなかった、と。それらのいずれ(の場合)に対しても、我々は応えることができるだろう。

そこで我々は、彼らが神々であると見なさない人たちに対して次の諸々の事柄を言いたい:果たして彼らは始めから存在しないのか、むしろある人たちが人間たちの魂について、それが直ちに腐敗するものとして考えているように、彼らの魂も腐敗したのか、それとも、それが存続するあるいは不死であると主張する人たちの臆見に従って、彼らは存続するのかあるいは不死なのか;そして彼らは神々でないとしても英雄たちなのか、それとも、英雄たちでないとしても、単純に魂たちなのか;とにかくあなた方が、彼らは存在しないと想定するなら、魂についての先導的な理拠が準備されるべきである。しかし、もしも(彼らが)存在するなら、そのように不死についての(先導的な理拠)が証明されるべきである――不死について美しい仕方で述べるギリシア人たちによってばかりでなく、神的な諸々の学識に合致する仕方で。そして我々は、次のことを示すだろう:彼らが、多くの神々になった上で、ここからの退去後に(現世)よりも優れた場所と取り分の中にいることはできない――彼らに関する諸々の物語を持ち出すと;それらの(物語の)中には、ヘラクレスの多大な放縦とオンファレに対する女々しい隷属と、彼らのゼウスによって落雷のようなもので打たれたアスクレピオスに関する諸々の事柄とが記載されている[3]。また、ディオスクーロイ[4]に関する次のような諸々の事柄を集められるだろう:「彼らは、ある時は日毎に生きており、ある時は死んだ。そして、神々に等しい名誉を獲得した[5]」と――頻繁に死ぬ者たちが、である。したがって、どうして彼らの内のある者が理にかなった仕方で神や英雄と見なされ得るのか。



[1] ユピテルの二子を指す(詳細不明)

[2] Cf.C.Celsum,II,70.

[3] (省略)

[4] ユピテルの二子を指す(詳細不明)

[5] (省略)

 

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