31 それらの事柄がその通りであるなら、それほどの諸々の事柄を組織することのできるイエスに関して次のことを承認することがどうして理に適っていないだろうか:彼の中には偶然的な神性はなかったが、プロコネーソス人(である)アリステアスの中には(偶然的な神性が)さえなかった――たとえアポロンが彼を神々の取り分の中に配置することを望んでも――、またケルソスが、「矢と共に運ばれるほど大きな力を持っていたヒュペルボレイオス人(である)アバリスを誰も神と見なさない[1]」と言って数え上げている者たちの中にさえなかった:プロコネーソス人アリステアスに、矢と共に運ばれる恩恵を与えた神性は、いったい何を望んで、彼にそれ程のことを授けたのか;人間たちの種族がどのような利益を得るためにか;それとも、彼自身が、矢と共に運ばれることからどのような便益を受けたのか;それらの事柄は決して諸々の作り事ではなく、何らかの鬼神的な協働に即して生じたことが同意されるためか。他方、もしも私のイエスが「栄光の中に」取り上げられると言われるなら[2]、私は次のオイコノミアを見る:そのことが成ることを働いた神は、観想する者たちに教師を立てた――それは、人間的な諸々の学識のためでなく、諸々の神的な教えのために奮闘し、可能な限り、すべてのものの上に臨む神に自分たち自身を捧げ、その御方の満足のためにすべての諸々の事柄を実践して、この生活の中で善くあるいは悪しく行った諸々の事柄(の報い)を神的な法廷の中で相応しく受け取るようになるためである。



[1] 省略

[2] Cf.1Tm.3,16.

 

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