34 とにかく私は、ケルソスが彼らだけしか知らなかったと考える。そして、似た諸々の事柄を意図的に無視しているように見られるために、彼は、「人は、彼らのような他のもっと多くの人々を言うことができるだろう」と言った。しかしとにかく、彼らのような――人間たちの種族をまったく利さなかった――もっと多くの人ひとたちがおり、そして、承認されたとしても、彼らの何が、イエスの業と、彼に関する諸々の逆説――それらについて我々は、より詳細に言ってきた――とに似たものが見出されるだろうか。

それらの後で、囚われて死んだ――と、ケルソスが言っている――方を我々が崇拝することによって、次の人たちと似たことを行っていると考えている:「ザモルクシスを崇敬するゲテス人たち、そしてモプソスを(崇敬する)キリクス人、そしてアンフィロコスを(崇敬する)アカルナス人たち、そして、アンフィアラオスを(崇敬する)テーベ人たち、そしてトロフォニオスを(崇敬する)レバディオス人たち。そしてそれらの人たちにおいても、彼は理に適った仕方で我々を前述の人たちに似せていないとして、我々は彼を論駁するだろう。実際、一方の人たちは、枚挙された人たちのために諸々の神殿と諸々の神像を準備した。他方、我々は、彼らを通した敬意を神的なものから取り去りつつ――なぜなら彼らは、どのような仕方か私は知らないが、何らかの場所《彼らが予め取った何らかの場所、あるいは、何らかの諸々の儀式と諸々の詐欺とを通して導かれることによって居住するかのような場所》の中に据えられた諸々の鬼神的なものにむしろ適合しているからである――イエスに驚嘆している。彼は、腐敗し得るものとしてばかりでなく、腐敗するだろうものしての一切の感覚的なものから我々の精神を逸らし、万物に臨む神へと向けられた――実直な生活と諸々の祈りを伴う――敬意へと導き上げる。それらの祈りを我々は――生まれざる方の本性と造られたすべての諸々のものとのいわば中間にある方――彼は、父からの諸々の善行を我々にもたらすと共に、大祭司として我々の諸々の祈りを万物に臨む神に運ぶ――を通して彼に向ける。

 

 

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