引き続く諸々の箇所の中で、彼は明白に嘘をついているので、さあ、彼の言い回しを我々は引用しよう。彼は言う:「もしもすべての人間たちがキリスト者たちになることを望むなら、後者の人たちは[1]、もはや(そのことを)望まないかもしれない」と。そのような言葉が虚偽であることは、キリスト者たちが彼らの可能な限りで居住地のあらゆる所にみ言葉を播種することを怠らないということから明らかである。確かにある人たちは、他の人たちも神に対して敬虔になるようにするために、諸々の都市ばかりでなく、諸々の村や諸々の小屋まで歩き回る努力をした。もちろん人は、彼らが豊かさのためにそのことを実践しているとは言えないだろう。時として彼らは、滋養のための諸々の物を受け取らなかった;たとえある時、彼らがそのような困窮によって(受け取ることを)強いられたとしても、必要なものだけで満足した――たとえ人々か彼らと多くのものを共有しようと望み、諸々の必要以上の物を(彼らに)分け与えることを望んだとしても。いや今日でも、おそらく、み言葉に近づく人たちの多数の故に、豊かな人たちも、諸々の気品の中にいる者たちの或る者たちも、高貴な生まれで可愛らしい少女たちも、み言葉から来る人たちを受け入れたとき、ある人たちは虚栄の故にキリスト者たちに関する教えの先頭に立っていると、ある人は敢えて言うだろう。特に(キリスト者に関する教えを)教える人たちに対する危険が多大だった初めの頃は、確かにそのようなことを理にかなった仕方で憶測することはできない。しかし今日でも、他の人たちの許にある不評判の方が、同じ意見の人たちの許に考えられている評判――すべての人たちに考えられているわけでない評判よりも多大である。したがって、「もしもすべての人間たちがキリスト者たちになることを望むなら、後者の人たちは[2]、もはや(そのことを)望まないかもしれない」ということば、直ちに虚偽である。



[1] 「キリスト者たち」を示す。

[2] 「キリスト者たち」を示す。

 

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