すなわち、「実にキリスト者たちのある者たちとユダヤ人たち:一方の人たちは、ある神が、あるいは神の子が、ここにいる人たちの裁き主としての到来したと言い、他方の人たちは到来するだろうと言っていること、これは極まりない恥であり、長大な言論による論駁さえ必要としない」と。ともかく彼は、幾人かのユダヤ人でなく、すべてのユダヤ人たちに関して、ある者が土地の上に到来するだろうと彼らが思っていると正確に言い、キリスト者たちに関して、彼らのある者たちは、(そのある者が)到来したと主張していると正確に言っているように見える。実に彼は、ユダヤ的な諸々の文書からキリストの来臨をすでに起こったこととして証明する人たちを明示している。そして彼は、イエスが預言されたキリストであることを否定するある諸々の派閥のあることを知っているように見える。ともかく既に我々は、以前の諸々の箇所の中で[1]、キリストが預言されていたことに関して、力の限りで把握した。それ故、我々は再論しないようにするために、その論題に関して言い得る事柄の多くを再び取り上げない.ともなくあなたは、次のことをご覧になって頂きたい:いやしくも彼が、諸々の預言に関する信仰や、キリストが到来するだろうことあるいは到来したことに関する信仰をたとえもっともらしい首尾一貫性で転覆することを望んだとしても、我々――キリスト者たちとユダヤ人たち――が互いに討論するときに使用する諸々の預言そのもののを自身が引用する必要があった。実際、そのようにして彼は、(キリストへの)確信によって偏向した――と、彼は思っている――人たちを、諸々の預言的なものへの同意と、イエスをキリストと見なす諸々の預言的なものよる信仰とから転向させたと、思い込んでいる。ところが今、彼は、キリストに関する諸々の預言に対して対応することができないか、あるいは、彼に関して預言された諸々の事柄が何であるか根本的に知らないので、キリストに関する諸々の(預言)は無数にあるにもかかわらず、預言的な表現をまったく引用しない。他方で彼は、彼らの詭弁と言っているものさえ引用せずに、諸々の預言的な事柄を非難できると思っている。ともかく彼は、私たちが上の諸々の箇所での中でも述べた通り[2]、ユダヤ人たちが、キリストが神であるとして、あるいは、神の子であるとして降臨するだろうとそもそもまったく言っていないことを知らない。



[1] Cf.CC.I,49-57; II,28-30.

[2] Cf.CC.I,49.

 

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