それらの諸事の後で、高貴極まりないケルソスは、どこから(口実を)掴んできたか私には分からないが、我々が「神は、みずから人間たちの方へ降りていく」と言っているとして、我々に対して難癖をつける。そして彼は、「彼は自分自身の座を捨て去った」ことがそのことに帰結すると考えている。実に彼は、神の力を知らない;「主の霊が全地を満たしてきたのであり、すべての諸事を包含しつつ声の覚知を持っている[1]」ことを知らない;また、「私は天と土地を満たしていないのか、と主は言う[2]」と言うことも理解できない。また、彼は次のことを見ていない:キリスト者たちの教えによれば、私たちは「皆、彼の内に行き、動き、存在します[3]」――パウロも、アテネの人たちへの教話の中で教えたように。したがって、たとえ万物の神が、ご自身の力によって、イエスと共に人間たちの生活の中へ降ったとしても、たとえ「元において神と共にあった」み言葉、それ自身が神であるみ言葉が[4]、私たちの方へ来るとしても、み言葉歯(ご自分の)外に来たのでもなければ、自分自身の座を捨て去るのでもない――あたかも彼のいない場所が存在してしまい、他の場所が、以前は彼を含んでいなかったにが(彼を含んで)満たされるかのように。神の力と神性は、ご自分の望む方を通して滞在し、その(ご自分の望む)方の内に場所を見出すが、場所を取り換えるのでもなく、自分自身の場所を捨て去って空虚にし、他の(場所を)満たすのでもない。もちろん我々は、彼が(ある場所を)捨て去って、他の場所を満たすと言うとしても、場所に関してそのようなことを表明するつもりはない。むしろ我々は、次のことを言うつもりである:悪徳の中に浸る劣悪者の魂は神によって捨て去られるが、徳に従って生きることを望み、前進するか、あるいは既にそれに従って生きる人は、神の霊に満たされ、あるいは(それを)分有すると、我々は表明する。したがって、キリストの下降や人間たちへの神の回向のために、より偉大な席を捨て去り、この(地上の)諸事を変えることは必要でない――ケルソスが考えて次のことを言っているように:「もしもあなたが、この(地上の)諸事の何か一つをわずかでも買えるなら、一切の諸事があなたにとって転覆してしまうだろう」と。しかしもしも、神の力の臨在と人間たちへのみ言葉の到来によってある人が変わると言わねばならないとすれば、我々は次のことを言うのを躊躇わないだろう:劣悪者から上品者へと、放縦者から節制者へと、迷信者から敬虔者へと、自分自身の魂の中への神のみ言葉の到来を受け入れた人は変わると。



[1] Sg.1,7.

[2] Jr.23,24.

[3] Ac.17,28.

[4] Jn.1,1-2.

 

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