2 実に人並みに考えることのできる人にとっても、非難され偽証されたこのイエスが、裁判官から有利な判決を得るために弁明して、自分が非難に値しないことを証明し、ご自身の生活をつまびらかに語り、ご自分の為した数々の力ある業が神からのものであることを示すことができたのに、それをしなかったということは、驚きに値するものだったでしょう。それどころかイエスは、自分に加えられた数々の非難を軽視し、これを気高く無視されたのでした。イエスが弁明すれば、おそらく裁判官はためらうことなく彼を釈放したであろうことは、彼について書かれていることから明らかです。裁判官は、「あなたがたは、この二人のうち誰を釈放してもらいたいのか。バラバか。それともキリストと呼ばれているイエスか」と言っています。また、聖書がこれに付け加えて言っておりますように、「実際、彼は、彼らが妬みのゆえにイエスを引き渡したことを知っていた[1]」とあるのです。ともあれイエスは、常に偽りの証言を受けています。そして人々の間に悪意が存在する限り、彼が非難を受けない時はありません。イエスは今でも、これらの非難に対して沈黙を守り、声を発してお答えになることがないのです。しかしイエスは、ご自分の正真正銘の弟子たちの生活の中で弁明をなさっています。これらの弟子たちの生活は、一切の偽証に勝っていて、際立った数々の出来事を雄弁に語り、偽証や非難の数々を反駁し、覆しているのです。