パウロや使徒たち、および彼らに似た人たちばかりでなく、私たちも、災いを始めとするここに枚挙された事柄が(神の愛から私たちを)引き離さないのを正当に誇ることができます。パウロはこれらの事柄を完全に超越していたがゆえに、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことにおいて征服者に勝っています」と言ったのです。これは、征服することよりも偉大なことです。また、もしも使徒たちが、「私たちの主イエス・キリストにおける神の愛から」引き離されなかったがゆえに誇るとすれば、彼らは、「死も、生命も、天使たちも、諸々の支配するもの」その他も彼らを「私たちの主イエス・キリストにおける神の愛から引き離さなかった」ことを誇ったことでしょう。ですから私は、キリストを信じている人の信仰が、ケルソス――彼は、もはや人々の間での共通の人生を送ってはおらず、とうの昔に死んでいます――や説得力のある議論によって動揺させられるのが理解できません。また私は、ケルソスのキリスト教徒批判によって動揺した信仰を立て直してくれる反論書を必要とする人をどのように考えるべきかわからないのです。しかしながら、信仰を持っていると見なされている多くの人々の中には、ケルソスの著作によって動揺させられ動転してしまったけれども、彼の書物に対する弁明がケルソスの議論を論破し、真理を明示し得る性格を持つものならば、それによって癒される人もいるかもしれません。そこで私は熟慮の末、あなたの要求に従って、あなたが私に送ってくださった(ケルソスの)書物に対して反論を口述する決心をいたしました。このケルソスの書物は、私が思うに、哲学において少しでも進歩した人たちなら、ケルソスがみずから付けた「真の言葉」という題名に値するなどとは思わないでしょう。